「赤彦全集」刊行に就て    土田耕平

    
 島木赤彦全集刊行の仕事が、アララギ同人によつて已に着手された。先生逝いて滿三ヶ年、その人格その行績に對する敬慕の念愈々深きを覺ゆる我らにとつて、最も大きなる喜びである。やがてその遺業の全貌に接し得ることによつて、先生の永遠不易の姿をわれらは初めて仰ぎみるであらう。
 先生の仕事は、その中軸たりし作歌二十餘年の歩みの跡がどれ程眞劍なものであつたか、まづそのことを考へてみるだけでも全集刊行の仕事に感激の涌くを覺える。常に努め常に歩み渾身歌の精の如くであつた先生が、萬葉以來の歌界にたぐひ少き炬光を殘したことは偶然ではないのである。我らは先づ全歌集によつて、つぶさにその苦研のあとを見たいと思ふ。
 作歌についで萬葉集の評釋、これは先生が畢生の事業であつたにもかゝはらず、僅かに「萬葉集の鑑賞及び其批評」前卷の上梓を見たのみで他界せられたのは、眞に百代の恨事であつた。今度の全集には、先生が晩年各地に於てせられた萬葉講演の筆記その他の記録を普ねく蒐集整理する筈であるから、或は意外に大きな成績があがるかも知れぬ。萬葉學としてこれを見ればよし不備のものであらうとも、先生の見識そのものは掩ふべからざる光であると信じる。
 萬葉の外に歌論歌評の類は可なりの量にのぼるであらう。先生の歌論、その作歌道に對する強い信念の文字は、生前已に歌界の定石たる觀があつたが、全集としてこれを取りすべてみるとき、更に一貫した力が感得されることゝ思ふ。先生の仕事は深い根底に立つてゐるから、その各枝條にまでそれぞれの力があり、中心の太幹に到つて確實にその力が綜合されてゐるといふ氣がする。それは一首の歌を批評する口調にまで、根本的のものがあらはれてゐるのである。
 隨筆感想の類も總て取り集めてみたら少くあるまいとおもふ。我らは先生が書くアララギ編輯便の一くさりにもいたく動かされた記憶が多々ある。或場合には先生が威儀つくろうて堂々議論したもの以上に、端的に先生の心情――われらに最も好もしかつた――を傳へた小斷片があるに違ひない。それによつてわれらは世にたぐひなきまでに覺えた彼の坐談の姿に再會し得るであらう。
 次に先生の教育論、これは先生が作者である一面、極めて秀れた教育者であつたことをおもへば、その價値を今更云々する必要もないであらう。
 なほ童話小唄新體詩の類、これらは作歌ほどに優秀なものではないかも知れぬが、いづれも先生の一面を傳ふるに足るものである。
 書簡集は、先生が情に篤かつた人であり、又多難の境涯を經た人であるだけに、世の常なみのそれとは撰を異にしたものがあらうと思ふ。
 以上全集内容の概略を述べたにすぎないが、これによつてみるとき、常にきりつめて一すぢ一すぢと歩みを運んでゐた先生の仕事が、其量に於ても種類に於ても意外に多かつたことを知るのである。これは先生の性格の複雜さを示してゐるものと思ふ。複雜多方面でありながら、常に中心の把握力をゆるめることがなかつた。これが先生の偉かつたところであり、又全集として最も本質的のものを具備するであらうとおもはれる所以である。
 偉れた作者の全作品を蒐集保存することの有意義なるは言ふまでもなきこと乍ら、赤彦先生の如き簡一と複雜と生活の兩極を抑へて生涯を歩みとほしたと思はれる人に於て特にその意味が深い。ある種の作家に於てはその仕事の精華をのみ取り出してみた方が寧ろ望ましい性質のものがあるが、赤彦先生の仕事に對してはそれではいけない。先生の仕事はあちらからもこちらからも見なほすでなくては、充分に底意の汲めぬところがある。全集に期待多き所以である。それから、もう一つには、先生の生涯があれだけ渾和した大きな力を示しながら、更になほ深度を加へたある境地へ躍進せんとする將來性をもつてゐたことである。云ひかへれば、偉大なる未完成であつたことである。全集は、先生が已に成就した世界を示してくれるであらうと共に、更に成就せんとして終つた未到の世界をも暗示して呉れるであらう。これらを思ふとき、先生の全集に對してあらかじめ自分は深き衝動を覺えずにはゐられない。
 今やアララギ在京同人及び信濃の森山汀川氏等によつて、着々仕事は進められてゐるから、一年後には完備した全集を机上に備ふることを得よう。先生が常住の地たりし信濃の人々はこの刊行の仕事に對して特に期待と援助とをよせていたゞきたく思ふ。
                               (信濃毎日新聞 昭和四年四月六日)

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