「馬鈴薯の花」    土田耕平


 赤彦先生が赤彦となる前、柿の村人と號してゐたことは、誰も知つてゐることである。これは先生の居住地高木部落が、柿の木に掩はれた山村であつたことによる。
 諏訪の盆地は人氣のさわがしい、落付きのないところであるが、あの高木附近は不思議と、周圍の喧騷とかけはなれた落付きを持つてゐる。湖畔の新道とは別に、あの舊道に沿うた村は、昔ながらの靜けさを保つてゐる樣に思はれる。何氣ない雜木山の裾をうねつてゐる道路も、藁ぶき家の配置も何となく心を引く。先生の生涯の大部分が、あの高木で過されたことを考へるのは、何となく相應しいことに思ふ。
 高木部落の東に並んで、やはり柿の木に包まれた殆ど同じやうな、高木よりも更に古びた大和といふ部落がある。自分はその大和に生れて育つたのだから、先生との因縁はまことに深いわけである。その私が先生の追憶を書かせてもらふことは、自然の因縁だとも思ふが、鈍根不敏の私が果して、どれ程先生の面目を傳へ得るかを恐れる。然し先生の全傳を書く人は、他にいくらもあるのだから、自分はただ思ひつくまゝ片々記で滿足すればよいと考へて筆を進めることにする。
 古來の詩歌で、君は何が最も好きかと問はれるなら、一に芭蕉の句、二に「馬鈴薯の花」と答へるであらう。深みとか強みとかいふことを主にしていふなら、先生の作品で「太集」や「蔭集」を擧げること勿論であるが、しかもなほ自分は先生の處女歌集「馬鈴薯の花」が好きでならないのだ。それはあの集にこもる氣品と純眞、そして全くの「ひとり言」であることが、自分の全心を何より奪つてしまふのである。又先生の實生活に於ても、あの頃が最も内面的であつたやうに思はれる。その後は對他的乃至、對歌壇的のところがまじつて、偉かつた先生に對して、多少の不平なきを得ない。このことは、先生にも直語し又間接にも聞えて、先生を喜ばせなかつたことを、自分は知つてゐる。然し今や永遠の平和に眠つてゐる先生は、自分のこの偏癖を微笑をもつて、赦して下さるであらうことを信じる。「馬鈴薯の花」の歌のみでなく、あの當時書かれた文章「日曜一信」その他みないゝものだ。溷濁した現今の文壇を見た目には、勿體ないほどの清涼劑である。
 「馬鈴薯の花」の歌は、先生が出京前小學教師として信州東筑の廣丘村及び諏訪の玉川村に居任せられた當時の作だ。歌人として世に見とめられない時分のものである。廣丘は丈低い松原の點綴したところで、自分は十五六年も前に一度行つたことしかないが、なほ瞭然と心に殘つてゐて、いかにも「馬鈴薯の花」の歌品にかなうた自然であつて、限りなくなつかしまれる。
 自分が始めて歌の師として、先生に接したのは、玉川居住時代であり、日曜にだけ奧さんのをられる高木へ歸るといふ頃であつた。當時の先生を知つたことは、自分の大きな幸であると思つてゐる。                                (制作年月不明 未預表未定稿)
 
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