技巧に就きて
                      ――同人寄合語 其四――    土田耕平

 
 あらゆる藝術の中で短歌には短歌獨特の技巧がある。小説や戲曲と異なるは勿論なれど詩とも違ふし俳句とも大分隔りがある。短歌を作らうとするにはどうしてもこの短歌獨特の技巧を知る必要がある。古人たると今人たるとを問はず秀れた作家は必ず技巧の鍛錬を歴てゐるやうである。人麿、實朝、元義、良寛みな然らざるはない。現時に於てわが尊敬する一二の作家に於てこの事實は愈々確められるのを覺える。短歌無技巧論などと云ふものはいつの世になつても行はれるであらうが、それが技巧の手法の目立たぬことを期する心ならよし、單に技巧を無視することであつたなら一顧に價せぬ空論である。
 次にいかにして技巧の熟達を計るべきかを考へて見るに、唯まじめに製作をつゞけて自ら體得するより外ない。短歌に即して自己を捕捉することをつとめて居れば自づから技巧の道が開けるやうである。他の作を鑑賞して『けり』『かも』第何句切などといふことを味ふのは非常に益あるが、これとても自分の心が上の空では體得することは出來ない。
 技巧が上辷りしてしまつて内容にそぐはぬといふことがあるが、内容にそぐはぬやうな技巧はどこかに缺點がある。技巧は内容を離れては存在し得ぬ。技巧のみうまくなつて困りはせぬかなどといふ心配は無用であらう。一體古今以下の歌集は何と云ふべきか。技巧の行き方に誤りがありはせまいか。                                (アララギ 大正八年八月號)

 
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