人麿と赤人    土田耕平

 
  歌聖として、人麿と赤人が並び稱せられたのは、すでに作者在世の時からであつたらしい。古今集の序には、この兩人を並べ論じてゐることが明確であり、下つて徳川期の眞淵は、また極めて兩歌聖を並べ稱して、堂々たる所論を成してゐる。
 契沖は、代匠記の初稿本で人麿を擧げてゐるが、精選本に至つて取消してあるところを見ると、兩者の位をやはり同等においたものと考へられる。
 作品の評價は、時代によつて變遷を見ることが多いが、人麿赤人の歌は遠く千餘年を通じて、併稱されてゐるところを見ると、上たりがたく下たりがたい兩巨星であると信じてよいであらう。
 最近になつて、この兩者の作を論じ、各々の特色とするところを、細説してあますところなき觀あるのは島木赤彦である。それは「萬葉集の鑑賞及び其批評」その他に於て見らるる如くである。
 人麿の作風は、力が溢れてをり、赤人の作風は、力が内にひそんでをり、陰陽の如き差のあることは、誰しも萬葉をよむ人の感づくことである。
 歌の數量に就ていふと、人麿は短歌六十四長歌十六、赤人は短歌三十七長歌十三であつて、人麿の方が凡そ倍額に近く、なほ人麿歌集と稱するものに收められてある歌の數は、三百を越してゐる。文學作品はその價値が、數に非ずして質にあること勿論であるが、多數の作者を擁する歌集の如きでは、その數量如何が物を言ふ場合が少くない。しかるに寡作者の赤人が、歌聖として人麿と同列におかれたことは、注意してよいことである。殊にそれが作者在世當時に於て、すでに決定されてあつたことは、當時の人の詩歌に對する目利きがしのばれて奧床しい限りである。
 貫之及び、その以後の人々の所論は、どこまでが本音であるか、疑はしくも思はれるが、眞淵に至ると相當深い信念より出たことがうかがはれる。大正の赤彦に至つて、その極致に達した感があり、同時に萬菓調歌風の復活が、ここに隆盛を極めて、始めてやまと歌の大道が、私どもの前に開かれたといつても過言ではない。
 赤人の歌は、ひそかに地味である。故にその鑑賞にあたつて、微細に徹して行くでなくては、到りえぬ困難があるといふ。この考へはよい。これに對して、人麿の歌は大柄で力強い故に、鑑賞をたやすく考へるとすれば、それは大きな誤りである。
 秀れた文學作品は、各自異なつた個性に即いてゐるのが必常であるから、その鑑賞はいづれの作風とも難易の差があるべきでない。秀れたものほど、鑑賞は困難であり、絶えざる努力と謙讓の徳あるものにして、はじめてその作品の奧儀にふれ得るのである。人麿赤人のみに限らず、萬葉を談ずる豈容易ならむやである。               (信濃毎日新聞 昭和十五年四月) 
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