短歌に於ける人事と自然
                      ――同人寄合語 其五――    土田耕平

 
 他の散文藝術のことは暫らく云はず、短歌を評値する場合には、その觀照の態度如何、表現の力量如何に目をつけるのみであつて、取扱はれたる材料の如何は、殆ど意味をなさぬと云つてもよい。これは人事、これは自然と云ふやうな見方は、何の益がないのみならず、實は人事自然の區別など立ち難いのが常である。比喩的の歌は勿論のこと、さうでなくても、自然を歌ひながらかへつて人事的色彩を帶び、人事を歌ひながらなかなかに自然の匂ひの高い作品の多いことは、例を擧げるまでもないことと思ふ。
 これは短歌の性が、暗示的寂照的なるに基づくのであつて、短歌作者及び批評者の留意を要する點でなくてはならぬ。環境(人事及自然)に對する制作者の態度は、どこ迄も純眞無垢であつて、環境の眞相をさながらに表現しょうとする、即ちアララギの寫生を徹底させて行くべきである。しかし乍ら、短歌には單純化と云ふ恐ろしい關門があつて、いかなる人事、いかなる自然といヘども、一度はこゝを通らなくてはならない。而して一度この關門を通過した後の人事及び自然は、いたくその相を變へてあらはれるのが常則である。即ち暗示的寂照的である。一點を捕へて他を察せしめ、一所を握つて萬端を照らすのである。量に於て小さく、時に於て短いのもそれである。すべてが幽かになつて行くやうに思はれる。
 幽かなる光である、しかし消えることはない。幽かなる響である、しかし絶えない、幽かなる姿である、しかし永く人の胸に殘つてゐる。短歌にあらはれた人事及び自然の有難みは、つまるところこの邊ではあるまいか。見る人より見れば、それは不滅の光である。けれども目なき人にとつては、豚の前の眞珠にも等しい。彼等は玉を足蹴にかけ自らの罪を知らずに居るのである。しかしそれを氣にかけるのは歌よみの間違ひである。よくよく考へてみるに、短歌は天にあつては太陽たるべき藝術ではない、曙の星である。水にあつては瀧でなくして木の葉をつたふ滴である。花にあつては匂ひ高き西洋花にあらずして微々たる野草の類である。歌よみは一種の諦念を持つて然るべきかも知れぬ。
 古來東洋の道者は、求道の極は無言に終るを常とした。短歌は無言に近い藝術である。稀に稀に言葉を出せばよい。而してその言葉の深さは、時代思潮とか個人の性情とかそんなところは跳びこして、實在の奧底に達すべきである。餘計のことは饒舌らなくてもよい。また饒舌つて居る餘裕はない筈である。秀れた短歌は人事にしても自然にしてもその深所を只一點捕へてあとは皆棄ててしまふ。深所は一點(○○○○○)である。分らぬ人には永久に分らぬ筈である。以上少しく本題に違つたやうに思ふが、これで筆を擱く。(八月十日)
                                   (アララギ 大正八年九月號)
 
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