「歌道小見」に就て    土田耕平

 
  凡そ歌論には、獨語風のものと説話風のものと二通りあり、またその間を行つたものもあると思ふが、「歌道小見」は、あきらかに説話風の書きぶりであつて、一般の讀者に分らせよう分らせようと筆を運んで行かれた苦心が見える。ともすれば説話は通俗に流れがちであるがこの書には、さういふ難が少しもなく、自然の落ちつきと品位を具へてゐる。これは著者たる久保田先生の識見と年齡とが、おのづから然らしめたものであると思ふ。長い年月をかけて自ら歌作に精進され、且つ門弟の養育に骨折られた先生が、五十歳に近づいた今、始めてその歌論を一般世人の上に開示されたのは、たふとく意味ふかいことである。

「歌道小見」は開卷第一に、まづ古歌集をよむことを勸め、その唯一のものとして萬葉集を擧げてゐる。多くの岐論をさしおいて、直ちに萬葉集をあげてゐるのは有難い心地がする。
 「萬葉集時代の人は、心が單純で、一途で調子が大まかで、太くて強いところがあつたやうであります。單純一途であるから、原始的の強さと太さとを持つて居り、子どもの如き純粹さと自由さを持つて居ります。それが樣々の相となつて生長して、或るものは、藝術の至上所と思はれる所にまで到達してゐるのでありますが、左樣な所に到達することが、原始的の素朴さや純粹さから離れることを意味してゐないのでありまして、その所が萬葉集の力の生れる所であり、どの歌を見ても、如何にも生き生きしてゐるところであらうと思ひます。」 萬葉集の價値について、先づかういふ言を立てて居られる。「歌道小見」の文章は、僅かに百頁をこえるほどの短篇であり、安らかにこだはりなく筆を運んでゐるうちに、かういふ至言が隨所に見出でられるのである。好歌集をよんで、隨所に佳作を見出してゆくやうな喜びを以て、この一歌論をよんでゆくことができる。
更に萬葉を論じて、
  「歌ふ所は、皆、必至巳むを得ざる自己の衝動に根ざして居ります。これは、萬葉人として 當然の行き方でありまして、萬葉集のすべての歌の命は、一括して、ここにあるのだと言ひ得ると思ひます。これは内面から言へば、全心の集中であり、外面から言へば直接な表現であります。直接な表現でありますから、打てば鳴り、斬れば血が出るのでありまして、左樣な緊張した表現が、上代簡古な姿と相待つて、藝術としての氣品を持して居るのであります。」
と云つて居られる。歌論として、又藝術論としてその最深所に到り着いたと思はれる至言であり、一字一句の末まで氣魄の流通を感ずる。
 全心の集中、直接の表現、これは先生が萬葉人の歌作態度を評した言葉であつて、やがて現代歌に生きてゐる人々に與へられた銘である。『歌を作す第一義』を「全心の集中から出ねばなりません云々」と云ひ、「寫生」を「つまり感情活動の直接表現を目ざすからであります云々」と云ひ、それ以下、「主觀的言語」「歌の調子」「單純歌」「表現の苦心」「概念的傾向」「比喩歌」「象徴」「官能的傾向」「思想的傾向」「用語」「連作」と項を追つて、歌のあらゆる問題を是非して居られるが、歸する所はいづれも、全心の集中、直接の表現、この大本の信念である。外科の名醫が一個のメスを以て、複雜な人體を自在に解きひらいてゆくやうに、先生の歌論は、一の信念を以て、その道のあらゆる難問題を明快に説き盡してゐる。それは謂はゆる頭のよさを思はせる明快さとは違つて、長年苦行の後に得られる悟脱の境に近いものである。であるから、その説話は、一度聞いて胸に落つたからそれでよい、とすまされる底のものでない。自ら苦勞してその道を踏んでゆくでなくては、眞にその言葉の底を汲むことはできないと思ふ。私は、今度歌道小見を敷囘讀み返して見たが、その度に新らしいものを讀む心地がした。まことの詩歌が讀者の前に常に新らしいと同じく、まことの歌論には永久に新味が藏されてゐるものであると信じる。
 歌道小見は、歌の一般論である。しかし論項の要所々々には、萬葉の歌その他を擧げて具體的に論の結びをつけて居る。そこに到つて、先生の作者としての力と、論評家としての力とが合致して、その論條をいかにも根強いものにしてゐると思ふ。先生は、歌のあらゆる問題の中で、『調子』の條に最も念を入れて居られるが、實にこの調子の問題は、歌の上で最も奧堂に立つべきものであつて、歌に對する理解の如何は、その調子をいかに解するかにあるというても過言ではない。
先生は云ふ、
  「我々の感動は、伸び伸びと働く場合、ゆるゆると働く場合、切迫して働く場合、沈潛して働く場合といふやうに、個々の感動に皆特殊の調子があります。その調子が宛らに歌の言語の響きや全體の節奏に現れて、初めて表現上の要求が充されるのであります。この調子の現はれは、意味の現れと相軒輊するところないほど、短歌表現上の重要な要求になるのでありまして、古來よりの秀作は、皆、歌の調子が作者感動の調子と快適に合つてゐるために、永久の生命を持つほどの力となつてゐるのであります。」
 そして、人麿の「あしびきの山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る」、赤人の「み吉野の象山のまの木ぬれにはここだもさわぐ鳥のこゑかも」等を擧げて、精密に嚴肅に歌の最要問題に説き到つてゐる。そしてつひに人麿赤人の比較論となり、
 「人麿のあの歌(「あしびきの」をさす)は、人麿の雄渾な性格に徹して、おのづから人生の寂寥所に入つて居ります。赤人のこの歌(「み吉野の」をさす)は、赤人の沈潛した靜肅な性格に徹して、同じく人生の寂寥所に入つて居ります。入つて居る所は同じであつても、感動の相は、個性の異なつてゐるがままに異なつてゐるのでありまして、それが自然に歌の調子に現れるのであります。人麿の歌は數歩を過れば騷がしくなりませう。赤人の歌は數歩を過れば平板になりませう。これは皆兩者の歌の調子から來てゐる相違でありまして、調子の相違は、兩者性格の相違から來てゐること勿論であります。」
 と云はれる。人麿赤人は古來の歌の道に於て、最も高きに立つ二人である。その二人者の對比を、これだけ簡單に明確に云ひ切つて、些かの不自然さも感じさせないところ、先生の識見がいか程の高處に到つてをるかを思はせられる。この數行の文章は、單にこれだけ切り離して考へても、その價値は永久不易であると信じる。

 なほ「隨見録」の方へ行つて、山上憶良論、憶良、赤人の比較論の如きも、理解と同情の行きとどいた、眞に心から頷くことのできる名文章であると思ふ。萬葉集の諸歌人が、先生の博大なる鑑賞に照されて、各々その特性を鮮やかにしてゐる中に、山部赤人は取り分けても評者の心と深く相通ふものがあるに相違ない。古來人麿赤人と竝稱されてはゐるが、誰しも人麿の方に一目置いてゐた。殊に現代に及んでは、赤人に代ふるに憶良家持等を以てする人さへ少くないのである。その時に當つて、先生の赤人論があらはれたのは、私どもの欣快にたへぬところであり、又赤人としては千載の後はじめて眞の知己を得たと云ふべきであらう。
「歌道小見」はその冒頭に於て、先づ何より萬葉をよむことを勸め、それ以下歌の道の諸問題を順次説きすすめる道々、常に萬葉及び萬葉系統の歌を引き合ひにして、各論が抽象に終らぬやうにして居られる。それ故、讀後の印象が非常に鮮やかであつて、世に多く見る歌論のやうに、徒に言葉のみ多くて論の焦點を缺いてゐるものとは、全然趣きを異にしてゐる。「歌道小見」は、歌の重要問題を恐らく統べつくしてゐると思ふが、その各論とも、一時的の興奮で物言つてるところや、論理の矛盾を來してゐるところが殆どない。終始一貫極めて明快に筆を運んで居られる。これは、先生の天性境遇年齡等が、その理解力を非常に廣く大きなものにしてゐることを思はせる。廣きものは兎角深みを缺きがちであるが、「歌道小見」は廣探兩面を兼ね合せてゐるものと云うてよい。論の要所に到るごとに、時にきはどいと思ふほど犇々と言ひつめてある。たとへて見るなら、枝條の間に縱横に懸けわたした大蜘蛛の網は、その末端に觸れる小蟲の微動が直ちに中心の蜘蛛に感じて行くにも等しく、この「歌道小見」に於ては、あらゆる問題が著者根本の信念によつて開明されてゐるが故に、論理が複雜になればなるほど、筆端は愈々冴えて來る。凡そこれだけに大きく深く渾然とした歌論が、今の世にあらはれたことを貴き限りと思ふ。
                                 (アララギ 大正十三年十月號)
 
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