歌境の選擇    土田耕平

 
  歌ごころの動くところを假に自ら『歌境』と名づけて置く。
 吾々の日常生活には終始この歌境があらはれて來る、朝めざめてから夜の床に目をつぶる迄、自然に對し人に對し或はまた自身の境涯について、さまざまの心動きが常に歌ごころをよび覺ますのである。
 この歌ごころを滿足させるために吾々は歌を作る。苦しみながら悶えながら。そしてこの心を滿たし得た時は、實にうれしいと思ふ。云ひ知れぬ滿足を覺える。
 歌境が一度吾々の前に現ずるや、忽ちにして焦燥感が吾々の心を領する。それを捕へて引き寄せて全く自分のものにしようとする。歌境が高いものであり深いものであれば、一そうこの焦燥感が著しい。そして同時に滿足感――歌境を自分のものになし得た時の滿足感も大きいものである。吾々は歌境の選擇が必要であると思ふ。
 小さな滿足感をつぎつぎに味ふよりも、大きな滿足感を稀々に味ひたい。私慾私情の感を滅した大きな滿足感を味ひたい。さういふ願ひを持つが故に歌境の低きもの淺きものは退けて行く。
 たとへば今私が一人で机の前に坐つてゐた時、人戀しさの思ひが動いたとする。それを直ちに自らの歌境として肯定したくない。ほんとに心の底から動き出したものであるか、それ限りのはかない戀であるかを見極める。それ限りのものであつたなら一蹴してかへり見ぬがよい。あさはかに物を戀ふるよりもむしろ孤獨感の深味に住すべきである。歌ごころを滿たし得た後の歡喜は實は恐ろしい。吾々は思はずそこに立止まらうとする自分の世界をそこに固定させようとする。かくして一度低き滿足感に住したものは容易にそこを拔けることは出來ない。
 その時限りの情感に涵つてうつとりとしてゐたではとても永生の歡喜には達せられぬ。ある一つを得るためには多くのものを犧牲にしなくてはならぬ。根氣薄弱なる自分は幾度も主觀歌を詠まうとしてはたじろいでゐる。
 しかし歌境の選擇は主觀歌のみとは限らない。
 たとへば私が野を歩いて一むらの草のそよぎを聞きとめたとする。それを直ちに歌に詠まうとしてはならない。自分の感銘が果してどの邊まで深く到つたかを確かめた後にする。感銘なくして、または淺き感銘のもとに自然を扱ふやうになつては恐ろしい。さういふ人は永久に自然の奧堂に參ずることはできない。自然は稀にその眞姿を吾々の前に示すのである。目に映る山川をそのまま自然だと思つてはならぬ。自然を觀ることは容易でない。
 歌境は常に目のまへに現はれて來る。種々雜多の形をもつてあらはれて來る。その時々にたやすく焦燥感に身を委せることなく、心を強く保つて歌境の深淺を見分け、ただ一つのあるものを目がけて、自分の歌ごころを高擧させたいと思ふ。その願ひをもつて自分の一生を貫ぬきたい。
                                  (アララギ 大正十一年四月號)
 
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