數の問題    土田耕平

 
  小説戲曲の類を附録としてゐる現今の大雜誌が歌人に歌を求める場合には、「三十百乃至五十百の歌を何日迄にお送り下され度候」などと平氣で書いてよこす。これらは實に短歌を侮辱した言葉であるが彼らは別に侮辱したつもりで云ってゐるのではない。歌人の方でも恐らく侮辱されたとは思って居ない。
 何十首といふ短歌がさう容易く作れるものとしたら短歌は取るに足らぬ小藝術である。價値から云ってとても小説や詩と比肩することはできない。事實今の文壇では短歌の如きは殆ど問題にされてゐない。一體これは何人の罪であらうか。
 短歌では常に單純化といふ。複雜な心象をきりつめ取りつめて三十一字形に盛りあげるのである。短歌の形式は終始三十一字であるが作者の努力によってその實質は漸く緻密に堅固になって行く。限りない道が奧深く開けて行く。誰しも口に單純化と云ふけれど眞に單純化の苦味を嘗めた人は少ない。それ故短歌一首に對して歸命の念を起し得ない。一首の形式を絶對のものとして作者も心をこめ讀者も反覆吟味するやうにならなくては、短歌本然の光明に浴することはできない。 
                                    (アララギ 大正十一年七月號)
 
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