コオデリヤ    土田耕平


 「コオデリヤ」非常によい名前である。西洋の文學作品に出てくる、さまざまの女性の名前の中で、最もよい語感を持ってゐるものの如く私は思ふ。いふまでもなく、コオデリヤは沙翁の「リヤ王」の中の一女性である。作者は、その作品中の人物の名稱に、意を用ゐること勿論であらうが、音樂的要素を多分に含んでゐるといはれる、沙翁の作品中の重要人物である。沙翁はこの名稱を如何にも愛惜したことであらう。
 文學は秀れたものほど、原作に直接觸れることなくしては、其評價をよくし得ないに相違ないけれども、坪内博士の名譯によつて、大きな原作の姿に、幾分なり近づくことは出來よう。そして秀れた翻譯は、それ自身創作に外ならぬのであるから、コオデリヤなる語も、原音の機微なる點にまで立ち入らずとも、日本假名のままの發音であって、聽覺感味を得るに充分なるものがあらう。
 「リヤ王」は同じ沙翁作の「ハムレット」「マクベス」等に比較して、全篇としての構想組立には、多少の矛盾や破綻が目立つやうに思ふが、一篇の主人公リヤ王なる一人物が、如何に深刻なる筆致をもって、描き出されてゐることか。ただただ驚くべき作品といふの外ない。しかしこのリヤ王が、リヤ王として生き、また全篇に漲ぎる血腥さい、蒸しかへしてゐる空氣が、讀者にひしひし迫るためには、一個の淨く強くして、可憐なる女性の存在が必要なのであって、その名前がコオデリヤである。
 この大作品中に、コオデリヤが姿を現はすのは、僅かに四場面に限られ、しかも言行するところは虔ましく數十行の文字に限られてゐる。最後の場面にあっては、死體となって現はれてくるコオデリヤが、絶對無言のうちに、限りない言語をあやなしてゐる。この邊は、戲作者としての沙翁の手腕を、天衣無縫とも稱したいところであると思ふ。文學にうとい私が、翻譯ものによって沙翁作を論じょうなどとは、ゆめゆめ思ってはゐないけれど、二葉亭、森鴎外、坪内逍遙等の譯は、純然たる日本古典に價するものと言はれてゐるから、これを愛惜する分にはさし支へないであらう。
 「リヤ王」は「ハムレット」の古調の譯に比べて、平易に大衆向きになってゐる點は、口惜しく思はれるが、最後の一場面即ち、死體のコオデリヤに向つて、父リヤ王が半狂亂の態で呼びかけるセリフの如きは、坪内博士ならでは誰人もよくし得ぬ妙技である。コオデリヤよコオデリヤよと絶叫する響きが、如何に痛切に讀者の胸をかきむしることであらう。
 名は體をあらはし心を表はす、砂金にも喩ふべき貴い一女性コオデリヤ、その語感に私はほれぼれとする。「フアウスト」のグレートへンを、今迄讀んだ西洋作品中の最上品と考へてゐたが、コオデリヤはグレートへンに比肩し得べく、私の好みと愛情をいへば、寧ろコオデリヤにとどめを射された感がある。讀後數日、コオデリヤなる語感が腦裡を往來して止まなかったのである。
 言葉は神、名は體である。よき名前は聞き得て寔に悦ばしい。古事記の神々には、よき名前が數々付せられてあるから、日本にあっては、作品としても實の人物としても、その傳統にたよって、優れた名づけ親になりたい。泰西古典の秀れたものを讀んだ後、古事記の記述に心が及ぶのは、私の長年の習癖である。                   (信濃毎日新聞 昭和十五年六月) 
 
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