萬葉集卷一に載つてゐる
自分が初めて萬葉を學んだのは、十八歳の時であり、講師は赤彦先生であつたから、此上ない筈であつたが、萬葉の面白味は却々會得出來なかつた。それは自然主義文藝や、ウエルヌの詩想などに、強く動かされてゐた時であるから、古代物の味を噛みわけるやうに、頭が働きかねてゐた為であつたと思ふ。然し當時といヘども歌の上では、新詩杜の歌風などは全く興味は索かず、左千夫と柿の村人の作風を、最も良いものとしてゐたのだから、本來の自分が萬葉嫌ひではなかつたに違ひなく、二年三年たつうちに、萬葉の持つ味ひが少しづつ解つて來て、今月に及んでゐる。
萬葉調に對して、新古今調といふものがある。古來萬葉よりも、新古今を好む人はいくらもあり、本居宣長の如き、古事記傳を著はし、萬葉に對しても、種々卓説を擧げた人であつても、新古今集を第一義においてゐるのであるから、人の好みには致し方のない所がある。
現代は萬葉全盛の時であるから、新古今を萬葉以上となす人は、恐らくないやうであるが、この兩者を同一架に置いて論じてゐる人は少くなく、その腹の底を割つてみれば、新古今の方が好きである事が、明瞭すぎる位明瞭なのである。唯流行の力に押されて、萬葉を押へかねてゐるだけとしか思はれない。
それでは、新古今はどんなものかといふに、自分としては新古今に相當の、價値も興味も覺えてゐるのであり、萬葉末期のぼやけた歌風に較べて、或點ではこの新歌調の方に、同情を持つ程であるが、結局新古今に趨くことの出來ない理由は、その現實遊離性にある。その苦心慘憺たる技巧も、思想的背景も、現實性を離れてしまつてゐるから、要するに「遊び」の文學以上に出でず、その結果として致命的ともいふべき、種々の缺點が生じてゐる。
新古今に同情を持ち、その中から學ぶべきもののあることを、知らないつもりではなくてゐながら、偖ゆくりなく、右に擧げた額田王の一首の如きに對すると、歌はどうしても、萬葉が指標であるといふ感じが、新しくむらむらと動いて來て、自分の萬葉に對する信念は、一段強固になつて來るのである。 (信濃毎日新聞 昭和十四年十月)