萬葉集短歌輪講    土田耕平


 萬葉集 卷八
     山部宿禰赤人が歌一首
  百濟野(くだらぬ)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと(來)居し鶯鳴きにけむかも
 (耕平曰) この歌について先師は「萬葉集の鑑賞及び其批評」の中で『赤人は曾て冬日百濟野の道で萩の古枝にとまつて動いてゐる鶯を見た。それが春まで赤人の頭にのこつてゐた。ああもう春だ。あの時見た鶯ももう囀つたことであらうと想像してゐるのであつて小動物に對する愛憐の心が如何にも愼ましやかに現れてゐる。萩の古枝に來居し鶯は實にしをらしき心の現れた寫生である。それがあるために「なきにけむかも」が心ゆくまで生き得てゐる云々』と説かれてゐる。前掲憲吉氏の説とともに、この一首を味ふよすがとなる。一氣に感情をほとばしらす底の歌でなく、じゆんじゆんと思ひを言ひ述べてゐるので、鑑賞する方でもさういふ態度が必要であらう。ただ今の自分には、この歌もう少し感動があらはに出てもよくはないかといふ氣がする。契沖をして何か比喩歌らしく思はせるところ、かへつて自分にははがゆい感じを起させる。その邊未だ鑑賞力の及ばぬところかも知れない。なほ諸家の御教示を仰ぎたい。第四句の訓み方もいづれがよいかはつきり分らない。
     厚見王の歌一首
  (かはづ)鳴く甘南備河(かむなびがは)に陰見えて今や咲くらむ山振(やまぶき)の花
 (耕平曰) 第四句が想像的になつてゐるため「陰見えて」が作為の弊に陷らなかつたと云ふ憲吉氏の御説は有難く頷くことができる。そこがこの歌のいのちであらう。萬葉末期の匂ひは可なり著しいので、やや外面的の美しさに終つてゐる感じのする歌である。
     中臣朝臣武良自(むらじ)が歌一首
  時は今は春になりぬとみ雪()る遠き山邊に霞棚引く
 (耕平曰) 「今は」の「は」は是非とも欲しい。この一字なくては下の張つた調子を統べることが出來ない。「遠き山邊」を「遠山の邊」と讀む説があるが前者の方が好ましい。一二句から結句への續き具合、憲吉氏の御説簡にして總べてを盡してゐると思ふ。おのづから頭をあげて遠く眺むるここちである。「み雪ふる」は自分は三説中の第二説即ち「み雪ふる」の意味をかろく解したい。第三説の現に雪がふりつつあると解するのはこの場合こまかくなりすぎはしまいか。
     丹比眞人乙麻呂が歌一首
  霞立つ()()(かた)に行きしかば(うぐひす)鳴きつ春になるらし
 (耕平曰) 「野の上」は地名に解したくない。この歌第三句「行きしかば」まで一息に述べて來て第四句「鳴きつ」でぷつりと切つた句法は注意に價する。必ずしも傑作とは思はぬけれど手法上作者個性の味ひが濃厚に出てゐるのは前掲憲吉氏の説かれた通り時代の力が預つてゐるのであらう。
     高田女王の歌一首
  山振(やまぶき)の咲きたる野邊(ぬへ)の壺菫この春の雨に盛りなりけり
 (耕平曰) 野邊に山振(山吹)も咲き壺菫も咲いてゐるのであるが、この場合菫を主眼としてゐるところに作者の歡びの情がおのづから現はれて、結句「盛りなりけり」が自然に響いてゐる。「盛りなりけり」の語意について、憲吉氏の御説御尤もであるが、菫の花も所によると廣い場所に群がり咲いて隨分目を驚かすやうなことがある。ことに明るい春の雨に逢うてゐる眺めであるから、この結句はこのまま自然に受けとれる氣がする。
 附記。季節と云ふことを主にして考へると(殊に俳句の季感に養はれてきた今日の我々には)菫は初春のもの山吹は暮春のものであるから同時に點列するのは適はぬ感じがするが菫の咲く時期は比較的長いので、山吹の咲くころに至つてなほ盛んに咲いてゐる景色はいくらも見受ける。まだ季節といふものに對しておほまかの概念しか持たなかつた萬葉人として、かういふ配合に何等顧慮しないのは當然である。                   (アララギ 大正十五年七月號)

     山部赤人歌
  戀しけば形見にせむと吾が屋戸(やど)に植ゑし藤浪いま咲きにけり
 (耕平曰) いかにも虔ましい淨らかな感じの歌である。山谷の泉に口を觸れたやうな快さをおぼえる。何のたくんだところもなくして一字一句みな落ちつくべきところに落ちついてゐる。一首のこころは、人を思ひつつもなほ孤獨をたのしんでゐるとでも云はうか、この作者獨自の境地だとおもふ。
     大伴旅人歌
  橘の花散る里のほととぎす片戀しつつ鳴く日しぞ多き
 (耕平曰) 旅人卿が筑紫太宰府に赴任中妻女を喪うた時、弔問の勅使石上堅魚が「ほととぎす來鳴きとよもす卯の花の(むた)やなりしと問はましものを」といふ歌を贈つたその返しである。直ちに悲しみを訴へた歌でなく、涙をぬぐつて威儀をただしてゐるやうすが受けとれる。歌は氣品があつていい。上の句の序詞もよく境涯を活かしてゐる。
     大伴家持晩蝉歌
  (こも)りのみ居れば欝悒(いふせ)み慰むと出で立ち聞けば來鳴く晩蝉(ひぐらし)
 (耕平曰) 家持の歌には生活の倦怠とも見るべき感情が往往あらはれてゐて、それが末世の我々にはある同感と親しみをよぶこと少くない。この歌の調子にもそれがある。四五句もう少し單純にならぬかとおもふ。
     大伴家持唐樣花歌
  夏儲けて咲きたる唐樣花(はねず)ひさかたの雨うち零らば(うつろ)ひなむか
 (耕平曰) 「はねず色のうつろひ易き」等の句によつて唐樣花の性質はほぼ察しられるので、この歌の四五句も云はうとしてゐる心だけは分る。ただ感動のよるところがいかにも微弱だ。譬喩かとも考へて見たがさうでもないらしい。「はねず」は多分「ニハサクラ」であらうと古義の著者は云つてゐるが確かのことは分らぬやうである。
     大伴家持霍公鳥歌
  夏山の木末(こぬれ)(しじ)にほととぎす鳴き(とよ)むなる聲の遙けさ
 (耕平曰) 「夏山の木末のしじに」はいい句である。第四句の「なる」の用法も注意したい。ほととぎすは後世に至つて主として夜のものとして扱はれ「しのび音」などと云ふ形容が多いが、鳴くところでは晝盛んに鳴くので、私は大正九年六月伊豆大島の元村から差木地村へゆく途中の林間で、この歌その儘の情景に接したことがある。まづ調子の快く透つたよい歌であると思ふ。
     紀朝臣豐河歌
  吾妹子(わぎもこ)が家の垣内(かきつ)小百合花(さゆりばな)(ゆり)と云へれば不許(いな)ちふに似つ
 (耕平曰) 「後と云へれば否ちふに似つ」心憎きほど巧みな言ひざまである。上三句は「(ゆり)」の序詞であるが、おのづから象徴化して女の姿心ばえ等を髣髴させるものがある。この歌相許さんとする前の一拶であらう。                         (アララギ 大正十五年九月號)

     崗本天皇(舒明)御製歌一首
  夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿の今夜(こよひ)は鳴かず寢宿(いね)にけらしも
 (耕平曰) 深くやはらぎの心に充ちた何とも云ひやうのない秀歌である。「小倉」と云ふ地名もよく生きてゐるし、「鳴く」「鳴かず」の言重ねも行きとどいた親しみの心が自らあらはれてゐる。それから結句の「いねにけらしも」に到つてすつきりと物を言ひすべた感がある。この「いねにけらしも」ほど(こころ)の透つた句は少ないと思ふ。自分は今この歌を誦して「自然法爾」と云ふ佛語をおもひ出してゐる。
 附記。第九卷に雄略天皇御製歌としてこの歌の三句「鳴く」が「臥す」と變つて他は全く同じ歌が出てゐる。「鳴く」と「臥す」では勿論「鳴く」の方がいい。九卷の歌は雄略天皇の御製歌でなくこの歌の誤傳であらうと古人も云つてゐる。
     穗積皇子の御歌 鈔一首
  今朝の朝明(あさけ)雁が()聞きつ春日山黄葉(もみぢ)にけらし()(こころ)痛し
 (耕平曰) 前の歌の靜かに堪へた姿とは變つて、これは張り裂けるやうな心のなやみを詠まれた歌である。句法から見ても、前の歌が頭尾一すぢに(四五句の間に小休止はあるが)にとほつてゐるのに反して、これは二句四句五句三ケ所で切れてゐる。一首が三斷されてゐる句法は決して少くはないが、この歌のやうに「聞きつ」「けらし」「いたし」と三つながら強い響を持つた語尾で切れてゐる歌は稀有である。それが離れ離れとならずよく一首に引緊つてゐる力を思ふべきである。一首の上に現はれたところは秋來の風物による感懷であるが、内に止みがたい悲戀の情が漲つてゐるを見過すわけにはいかない。「春日山」と云ふ地名も一首の上で重要な役目を果してゐる。今朝あけ方に初雁の聲をきいた、春日山を眺めると、はや黄葉したらしい、そのはつかの色ざしは作者の衷にあるものを痛く唆つたのであらう。景によつて感をなす歌は多いが、これはいかにも沈痛である。皇子は但馬皇女と竊接(しぬびあ)ひ給うたことあらはれて志賀の山寺に遣はされる(二卷の皇女作參照)のであるが、これはその直前ごろの御歌ではあるまいか。
     山部王(桓武)の秋葉を惜み給へる歌
  秋山に黄變(にほ)()の葉の(うつ)りなば更にや秋を見まく欲りせむ
 (耕平曰) どうも概念的で物足りない。
     山上臣憶良が七夕歌(なぬかのよのうた) 鈔一首
  秋風の吹きにし日より何時(いつ)しかと()が待ち戀ひし君ぞ來ませる
 (耕平曰) これは憶良が天上織女の戀を想像して詠んだ歌であるから、「君ぞ來ませる」と云つても、實際の戀歌ほどに痛切味がない。ただこの種類の歌としては、表現も素直であり、一通りよい歌かとおもふ。
     笠朝臣金村が伊香山にて詠める歌 鈔一首
  草枕旅行く人も行き()れば(にほ)ひぬべくも咲ける萩かも
 (耕平曰) 微細の言ひ方でありながら實際の感じ方は比較的おほまかである。そこにある齒痒さを覺えるが一通りよい歌であると思ふ。一首中二個所で曲折させて結句の「かも」へ運んでゐる句法を注意したい。
     山上憶良が秋野の花を詠める歌
  秋の()に咲きたる花を指折(およびを)りかき數ふれば七種(ななくさ)の花
 (耕平曰) 有名な歌であるが、集中の惡歌だとおもふ。結句の名詞止め非常に据り惡く「および折りかきかぞふれば」も稚拙のやうでゐて、實は故意のしぐさとしか取れない。
                                   (アララギ 大正十五年十一月號)

萬葉集 卷第八
     舍人娘子作
  大口(おほくち)眞神(まかみ)の原に()る雪は(いた)くな降りそ家もあらなくに
 (耕平曰) 歌材も詠風も普通のやうであるが、作者の心が一圖に行つてゐるから、何となく一首の調に沁み込んだものがある。そして娘子らしい心持の出てゐる點もいいと思ふ。三句の「は」は手仁波であるが感嘆詞の役目をしてゐる。「大口の眞神」は狼のこと、ここは地名なのである。
     元正天皇御製
  幡芒(はたすゝき)尾花逆葺(さかふ)き黒木()ち造れる室戸(やど)は萬代までに
 (耕平曰) いはゆる寫生味の溌剌とした御歌である。二語一語引緊つて、しかも窮屈な感じは少しもしない。結句「萬代までに」はやはり肆宴(とよのあかり)の御心持であらう。この歌にあらはれた建築法は當時にあつて、永久的のものか一時的のものか、その邊がわかると結句のこころがなほ判然とするやうに思ふ。                              (アララギ 昭和二年四月號)

萬葉集 卷第九
  朝(びら)[手へん+立/方]()ぎ出て(あれ)は湯羅の崎釣する海人(あま)を見て歸り()
 (耕平曰) 「大寶元年冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)紀伊國に(いでま)せる時の十三首」中の一つである。作者は分らない。一日の清遊を試みるべく、同志相率て早朝舟出せむとする時に詠んだものであらう。いかにも爽快の氣に滿ちてゐて、その日の天候氣温迄察しられるやうである。第三句「湯羅の崎」を中心として一首の句の運びがいかにも流動してゐる。
  藤白(ふぢしろ)のみ坂を越ゆと白妙(しろたへ)の我が衣手(ころもて)()れにけるかも
 (耕平曰) 前記十三首中の一首である。やはり作者は不明である。藤白のみ坂は有馬皇子の故事あるところである。作者は勿論それを意識して作つてゐるのであらうけれど、結句の「沾れ」は涙に沾れる等の解でなく單に山のしづくに沾れる意に解してよくはあるまいか。
  ()の國の昔弓雄(さつを)響矢(かぶらや)()ち鹿獲り靡けし坂の上にぞある
 (耕平曰) これも前記十三首中の一首で、作者は分らぬが仲々いゝ歌であるとおもふ。「昔」というたのは遠い世のことではなく、何年か前作者が實際に見聞したこと(即ち、さつをのかぶらもち鹿とりなびけし有樣)を今その地を踏み想ひ出て詠んだ歌であらうとおもふ。氣骨たくましき老人が昔じまんをしてゐるやうに思はれる。或は作者自身その「さつを」の一人であつたかも知れない。「鹿とのなびけし」は造語と見るべきであらうが、異常に働いてゐる句だ。そしてこれは「かぶらもち」の句を受けて特に活きてゐることは云ふまでもない。
 第一卷の「秋さらば今も見るごと妻戀ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上」を參考歌にあげておく。
  白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深け行くを
 (耕平曰) 平淡に言ひくだしただちに一脈の哀愁をつつんでゐる。他に言ひかけてゐる心持よりむしろ獨り言に近いのであらう。聲の低いのは自然である。手もとに參考書なく、極簡單に私見を記すのみ、補正を乞ふ。                       (アララギ 昭和二年六月號)

萬葉集 卷第九
  うちたをり多武(たむ)の山霧しげみかも細川の瀬に波の(さわ)げる
 (耕平曰) 「舍人皇子に獻れる歌」とあつて作者は不明である。「うちたをり」は枕詞、「多武」は大和十市郡の多武峯、「細川」は山の西側にある川の名前である。
 山霧の流れてゐる川面にこまかく波立つてゐる情景であつてその感じ方表し方が、いかにも微細でそして透つてゐる。一誦寂しい川瀬のさざめきを耳にきく如くである。
  ぬばたまの夜霧ぞ立てる衣手(ころもて)高屋(たかや)の上に棚引くまでに
 (耕平曰) 舍人皇子の御作歌である。「衣手」は枕詞、「高屋」は大和十市郡の地名、いづれ高臺になつてゐるのであらう。
 淡々と詠みすててゐる言葉のはしはしに一脈の哀韻が沁みいで、靜寂なる自然の夜氣をそのまま傳へてゐるやうな歌である。前の歌の「うちたをり」この歌の「衣手の」枕詞が微妙に働いてゐる。
  御食(みけ)(むか)南淵山(みなみふちやま)の巖には降れる(はだれ)が消え殘りたる
 (耕平曰) 「弓削皇子に獻れる歌」とあつて「人麿歌集」の中のものである。南淵山は明日香つづきの地にある山で弓削皇子の御住居から程近く望まれたのだといふ。
 この非常な傑作は作者が誰であるか判然としてゐない。赤彦先生は「萬葉集の鑑賞及び其批評」のうちで人麿作であらうと推測して居られる。この一首に深く注意を向けた最初の人は先生であらう。このことは左千夫先生が「足引の山川の瀬のなるなべに弓月が嶽に雲立ちわたる」を始めて人麿の作として力説推稱したのと併せ考へていいと思ふ。
 この歌に對する評釋は「萬葉集の鑑賞及び其批評」をよめば更に小生など贅言を添ふる必要を見ない。その釋をここに全部引用することもどうかと思ふ故「古き南畫の秀品に接する如き感がある」といふ一句だけ擧げておく。赤彦先生晩年の作風にはこの一首に通ずる力とさびとが多分にあつたとおもふ。
 四五句「ふれるはだれか消えのこりたる」を代匠記では「ちるなみたれかけつりのこせる」と訓んでゐる。蓋し難讀の句であつたのだらう。そして見ると訓詁の功は非常に大きなものとせねばならぬ。
  百傳(ももづた)八十(やそ)島廻(しまみ)を[手へん+立/方]ぎ()けど粟の小島は見れど飽かぬかも
 (耕平曰) 「或云、柿本人麿作」とある。「粟の小島」は瀬戸内海の粟島である。數多の島々を見て來た後であるがこの粟島の眺めは一しほであると賞美してゐるのである。いかにも悠々として迫らぬ語句の運びがさながら古人の氣息をつたへてゐるを覺える。
 三句「來けど」五句「見れど」と「雖」の意重複してゐるところ些か氣になると思つたが、當時「見れど飽かぬかも」は常用語であるからこの「見れど」は輕く見ておけばこれでいいやうでもある。その邊小生にはまだよく分らない。「こぎきけど」は代匠記では「こぎくれど」と訓んでゐるが私は古義の訓を取りたい。                             (アララギ 昭和二年八月號)

萬葉集 卷第九
  埼玉(さきたま)小埼(をさき)の沼に鴨ぞ翼振(はねき)る己が尾に()り置ける霜を(はら)ふとならし
 (耕平曰) 「武藏の小埼沼の鴨を見て」とある。作者不明。一首の歌詞から推すに、その土地の人の作ではなく、たまたまその沼のほとりを過ぎた旅人の詠であらう。「羽きる」は古義に「羽だたきすることなり」略解に「羽を振るなり」とある。「きる」といふ音に寒い鋭い響がある。但しこれを「羽ぎる」と濁つてよむと少し和らいで來る。一首の意は歌のおもてにあらはれた通りであるが、一つの小生物たる鴨を捉へて、天地間に滿つる嚴霜の感じを出さうとしてゐるところに注意される。けれどもこの歌の克明に表すべき境地は、律動に重きをおく旋頭歌の體には稍々不向であつて、上句の「埼玉の小埼の沼に……」の如き悠長に歌ひ流してゐる表現は、この冷嚴のカンと來なくてはならぬ場合に、どうもしつくりとせぬ感じがある。これと似た境地を扱つた短歌「葦邊行く鴨の羽がひに霜ふりて」等に較べると一首の緊り方によほど相違があると思ふ。
  豐國(とよくに)香春(かはる)吾宅(わぎへ)紐兒(ひものこ)にい縫著(つが)()れば香春(かはる)吾家(わぎへ)
 (耕平曰) 「拔氣大首(ぬかけのおほびと)が筑紫に
(まけ)らるゝ時豐前團の娘子紐兒(ひものこ)に娶ひて詠める歌三首」の中の一首である。作者は傳不明にて大首といふのも姓か名か判然せぬやうである。豐前は筑紫なる泛稱の中に含まれてゐるのであるから、この場合作者の任國は豐前以外の國であり、途次たまたま豐前香春を過ぎて紐兒(ひものこ)と言ふ娘に逢つたのであらう、假に滯留のほど愛着まさりて離れがたき心を、かく素朴な端的な句法で詠んでゐる。「香春」は地名である。それを直ちに「香春はわぎへ」と云ひ更に「香春はわぎへ」と打返して云つてゐるところは明快である。「いつがり」の「い」は發語で「つがる」の意を古義は「袋の口を[金へん+巣の舊字]のやうにぬふをつがるといふ」と云つてゐる。「つがる」と言ふ語は今の言葉にして何に相當してゐるか一寸思ひ當らぬが、奇體な感覺的な語である。そしてこの場合紐兒といふ娘子の名まへに絡んでゐると見るべきであらう。
 「紐兒」と云ひ「香春」と云ひその娘子その土地の名まへがよく活きて働いてゐる。當時は人の名まへ土地の名まへが今日の如く假の符牒でなく、もつと内容的に意味をなしてゐたのだから、作歌の上でも活きてゐる場合が多い。この歌に於て特に作者は「とよくに」「かはる」といひ「ひものこ」といひその名稱を愛惜して口の端にのぼせてゐることが分る。
  泊瀬河(はつせがは)夕渡り()吾妹子(わぎもこ)が家の金門(かなど)に近づきにけり
 (耕平曰) 「舍人皇子に獻れる歌二首」の中の一首であり、人麿歌出とあるが作者は不明である。代匠記も古義も、皇子に獻るとあるに泥んで何か下心のある歌の如くに解してゐるは甚だよくない。これほど端的に明快に直敍した歌をさやうに曲解するは、學者として訓詁の素養はあつても作歌上の價値鑑賞がいかにも覺束ないことを思はせられる。この歌に限らず……に獻れる歌とあるのを強ひて他意ある如く解してゐる場合が多々ある。
 この歌は如何にも太く強い線で押しきつてゐる所、到底後代の人の追隨すべからざる氣を示してゐる。「夕わたりきて」「かな戸に近づき」のあたりは、古代人の底力を否應なしに感じさせられる。一首の意は見るとほり嬬どひの歌であるが、やゝ久しき時を經て逢はむとする場合であらう。
  旅人の宿りせむ野に霜降らば()が子羽裏(はぐく)(あめ)鶴群(たづむら)
 (耕平曰) 「天平五年癸酉遣唐使の舶難波よりいづる時母が子に贈れる」長歌の反歌である。母その人の名前は分らない。
 一首の意は見るとほりであるが、初め「旅人」と總じて云ひ後に「吾子」と取りたててゐるのは、歌品を低くしてゐはしまいか。一すぢに吾子のことのみを云つてゐる方が有難い。それから結句の「天の鶴むら」といふ名詞止も稍々空虚のひゞきがある。萬葉末期の外形に墮せんとしてゐる傾向が多少感じられる歌である。むしろ長歌の方が素直でいゝと思ふ。「秋萩を妻どふ鹿()こそひとの子を持たりといへ鹿兒(かこ)じものあが獨子の草枕旅にし行けば竹珠(たかだま)をしじにぬきたり齋瓮(いはひへ)木綿(ゆふ)とりしでていはひつつあが思ふ吾子(あこ)まききくありこそ」          (アララギ昭和二年十月號)

 萬葉集 卷十
  かぎろひの(ゆふ)さり來れば獵人(さづひと)弓月(ゆつき)(たけ)(かすみ)たなびく
 (耕平曰) 「ゆふさりくれば」「霞たなびく」としつかり受けてゐるが、「さづひと」なる枕詞がその間にあつて、一首の調べにゆとりを與へ、かつその言葉のもつ本來の意味あひがある程度に働いて、一種の氣氛を釀してゐる。この枕詞は鑑賞上ゆるがせにならない。一首單純でゆるやかで、しかも強い線の張りを感じる。「人麿歌集出」とあるが恐らく人麿作であらう。
 この歌によく類似した境地及び發想の歌は、集中少くない。是はその頂點をなす作ではないかと思ふ。數多の模倣歌によつて犯されぬだけの品位と力があるやうだ。
  今朝(けさ)行きて明日(あす)()むちふ(はし)きやし朝妻山(あさづまやま)(かすみ)たなびく
 (耕平曰) 結句の「霞たなびく」に必然性がなく、よそごとを云つてゐるやうで力がない。この歌二三句「明日者來牟等云子鹿丹」を「アスハコムトイフコガニ」「アスハキナムトイフコガニ」等訓み來つたのを、古義の著作者が誤字ありとして改めて訓じたのである。そこに考究すべき餘地はあるであらう。
  子等(こら)()()けの(よろ)しき朝妻(あさづま)片山岸(かたやまきし)(かすみ)たなびく
 (耕平曰) 前の歌に似てゐる。「片山岸」と云つて状景が點出されてあるだけ、結句はこの方に据りがある。一二句は序とみなすべきであらうが、意味が働きすぎて(一首の興味がそこに係りすぎて)首尾ととのはぬ感がある。一首民謠氣分が多く、而かも不徹底の感があるのは、最初は一作者のものであつたのが、諸人に傳承流布されて漸次形を變へたのであるかも知れない。
                                      (アララギ 昭和四年一月號)

  山の()の雪は()ざるを(たぎ)ち合ふ川の柳は()えにけるかも
  (耕平曰) 前講の歌「山のまに雪はふりつつしかすがにこの河楊(かはやぎ)()えにけるかも」に似てゐる。比較してみると、この歌の方に「たぎちあふ」の如き働きのある句が入つてゐて生くべきであるが、實際は前のに及ばない氣がする。一二句がどうも説明に墮ちてしまつたのは、やはり第三句「たぎちあふ」と即きすぎてあるためであらう。
  能登河(のどがは)水底(みなそこ)さへに()るまでに三笠の山は咲きにけるかも
 (耕平曰) この場合單に「咲く」とだけでは足りない。すぐ前に山吹の歌があるからこれも山吹か。「水底さへにてるまでに」と云ふ句は山吹の如き花であつて始めて生きると思ふ。そして、この一首の景色はさう廣い場面ではあるまい。
  百磯城(ももしき)の大宮人は(いとま)あれや梅を插頭(かざ)してここに(つど)へる
 (耕平曰) 感充ちて詠みいでた歌ではない。まづ形だけのものである。
  霞立つ永き春日を戀ひ(くら)し夜の()け行きて(いも)に逢へるかも
 (耕平曰) 「戀ひくらし夜のふけゆきて」の粘り強い表現を注意したい。「霞立つ長き春日」と云ふ句はどうも遊んでゐる。ここはただ一日こひくらし」だけの方がよい。
                                      (アララギ 昭和四年二月號)

  暮影(ゆふかげ)に來鳴くひぐらし幾多(ここだく)も日(ごと)に聞けば()かぬ聲かも
 (耕平曰) 「ゆふかげに」「ここだくも」「日毎に」の疊みかけた言葉づかひが内容と相應じて一首快い音律を成してゐる。初秋の夕爽やかな蝉のこゑをさながら耳朶におぼゆる如き調子が出てゐて好もしい歌である。「ここだく()」(幾許)に考では「ここだく()」とよんでゐるが自分は考の訓み方をとりたい。
 「ここだく」の意は「蜩」の方へかかるのか「日毎」の方へかかるのか問題になりさうにも思ふがこれははつきりいづれとも決めなくてよいところであらう。
  妻ごもる矢野(やぬ)の神山露霜に(にほ)ひそめたり散らまく()しも
 (耕平曰) 「にほひそめたり」から直ちに「ちらまくをしも」と移る心持がピツタリ來ない。つまり結句がやや安易に置かれてあるのではないかともおもふ。上句の莊重な語法は味ふべきものである。
  秋風の日にけに吹けば水莖の岡の木の葉も色づきにけり
 (耕平曰) いかにものびやかな語句のはこび、一誦してただちに同化できる歌である。何でもないやうでゐて、どうもいい歌である。「水莖の」枕詞もこの場合動かしがたい働きをもつてゐる。
  秋山の紅葉(したび)(した)に鳴く鳥の聲だに聞かばなにか嘆かむ
 (耕平曰) 若い女をこふるにその姿をいはずに聲をいつてゐる例は集中に多くある。人間自然の情なのであらう。「秋山のしたびが下になく鳥の」と云ふ序詞が哀れにひびく。但しこの歌は一個人の痛切な戀情をうたつたものとしてでなく寧ろ民謠唱和のたぐひとして味はつた方がいいやうに思ふ。上の序詞を受けて「何かなげかむ」の調子にはそれとなく心を遣る民話のほがらかさがある。                                  (アララギ 昭和四年四月號)

萬葉集 卷十一
  新室の壁草刈りに御座(いま)し給はね草の如依り合ふ未通女(をとめ)は君がまにまに
 (耕平曰) 「壁草」は「新しく造れる屋は先壁をも草を刈てかこふなり」(代匠記)とある。一首の解も同書に「新室の壁草刈に事よせておはしませ其草の靡く如く心の依逢未通女(をとめ)はともかくも君に委せむとなり」とあるに從つてよいとおもふ。(但し「事よせて」といはなくもよいであらう。)一首の解はそれでよいが、しかし是は純然たる民謠であつて、女等が壁草を刈り乍らうたふ唄とみたい。旋頭歌獨特の悠長なる調子が大へん氣持よく味はれる歌である。
  新室を踏み鎭む子が手玉鳴らすも玉の如照せる君を内へと(まを)
 (耕平曰) この歌の解はどうもはつきりしない。ただこれも民話には違ひないと思ふ。
  長谷(はつせ)五百槻(ゆつき)(きと)に吾が隱せる妻(あかね)さし照れる月夜に人見てむかも
 (耕平曰) 「弓槻が下に」「人見てむかも」一首の捉へ方可なりこまかい所まで入つて生きてゐる。旋頭歌中の優秀なる一つであらうと思ふ。
  健男(ますらを)の念ひ(たけ)びて隱せるその妻天地(あめつち)に徹り照るとも顯れめやも
 (耕平曰) 前の歌に連ねた歌と見る必要はないであらう。上の第二句「おもひたけびて」より「おもひみだれて」を取りたい。「天地に(とほ)りてる」を前の歌に連ねて考へるから月光といふ解が出るのだが、これは必ずしも月光乃至日光等と定める必要はない。
 先の二首は民謠たること明瞭であるがこの二首は民謠とはいへない。ただ、かういふ切迫した心持をうたつても、この旋頭歌といふ形式はのびやかな悠長な調べになつてゐることを考へてみたい。                                   (アララギ 昭和四年六月號)

  垂乳根(たらちぬ)の母が手(はな)()くばかり(すべ)なき事はいまだ()なくに
 (耕平曰) 清く、朗らかに透つてゐる。「母が手はなれ」が可憐であり、「かくばかりすべなきことはいまだせなくに」に到つて、純なる處女の消息をぢかにきく感じがある。この殆ど無意味無内容とも云ふべき詞態をとほして、作者の容姿まで想見しうる氣がするのは、歌ごころが透徹してゐるのであらう。
  人の()味宿(うまい)()ずて(はし)きやし君が目すらを欲りて嘆くも
 (耕平曰) 「君が目すらを」といつて、「目」を捉へたことによつて、一首が具象化して生き生きとしてゐる。苦しみの中に戀の甘美感があふれてゐるのである。やや艷づきすぎてゐる感がないでもないが、特色のある歌である。
  何時(いつ)はしも戀ひぬ時とはあらねども夕片(ゆふかた)()けて戀ふは術無し
 (耕平曰) 自然にいつてゐて間然するところもない。女性作であらう。結句は考、略解等の訓「こひはすべなし」にも棄てがたいととろがある。本訓に比べて意味あひが消極的に引繁つて、「夕かたまけて」が落ちつくとおもふ。ただ調子の點からしてこの訓に從ひかねてゐる。
  (あれ)(のち)生れむ人は吾が如く戀する道に逢ひこすな(ゆめ)
 (耕平曰) 同じ戀歌でも、かういふものになると、何となく手の高い感じがする。作者の人品年齡まで想像し得るやうに思ふ。人麿の「古にありけむ人もわがごとか妹にこひつついねがてにけむ」に相通じたところがあるが、この歌人麿歌集中のもの故、同じ作者の息がかかつてゐるのかも知れぬ。                                (アララギ 昭和四年八月號)

  行けど行けど逢はぬ(いも)ゆゑ久方の(あめ)の露霜に()れにけるかも
 (耕平曰) 逢ひがたき事情の下にある時、夜行の途感慨を敍した歌であらう。契沖の「夜な夜な行」といふ解にすると「久方の」枕詞の如き、甚だ落ちつかぬものになると思ふ。大した佳作とは思はぬが、調子に張りのあるところ、及び、あまり巧みならぬ技方の中に反つて生氣を感ずる點、このあたりの歌中で、やや異色あるものといへようか。
  (あか)らひく(はだ)も觸れずて寢たれども()しき心を()()はなくに
 (耕平曰) 古義は「すべなく障る事のありしにより……相宿せずして云々」と解いてゐるが、さうではなく、相宿しつつ膚をふれなかつたといふのである。
 上の句、特に「あからひく」の枕詞など、割合外面的な、のんきな詠嘆に終つてゐるのは、民謠たる所以であらう。女のある氣分を表出した民謠の一つと見れば、相當おもしろい歌であるとおもふ。
  いで如何(いか)極太甚(ねもころごろ)利心(とごころ)()するまで()ふ戀ふらくの(ゆゑ)
 (耕平曰) 相聞歌中出色のものであらう。詞のはこびが、いかにも物柔かく、じわじわと滲み到る感があり、しかもなほ、一種の氣品を具へてゐる。結句の「こふらくの故」など少しも理窟にならず、虔ましい感じを起されるのは、稀有なるものにおもふ。
  戀ふること意遣(こころや)りかね出で行けば山も川をも知らず來にけり
 (耕平曰) 素朴のやうであるが、やや外延的である。「山も川をも知らず來にけり」それほど滿ちたものではないと思ふ。これは前の歌に並ぶから、特に相違をおぼえるのかも知れない。
                      (アララギ 自大正十五年七月號、至昭和四年十月號)

 
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