防人の歌二首    土田耕平

 
     
  大君のみことかしこみ出でくればわぬ取りつきて言ひし子なはも(萬葉集二十卷)
 天平勝寶七歳「二月九日、上總國防人部領使、少目從七位下茨田(まむた)連沙禰麿がたてまつる歌」の一つである。即ち作者物部(たつ)は上總の人であつてこれから防人の任を帶びて筑紫へ出向うとする時の歌である。
 「大君の勅命(みこと)かしこみ」は一つの成語であつて當時の歌に多く用ゐられてゐる。萬葉集二十卷だけにも左の如き歌がある。
  大君の勅命かしこみ磯に觸り海原(うのはら)渡る父母を置きて
  大君の勅命かしこみ夢のみにさ寢か渡らむ長けこの夜を
  大君の勅命かしこみ、妻別れ悲しくはあれど……(長歌)
  大君の勅命かしこみ青雲(あをぐむ)棚引(とのび)く山を越よて()ぬかむ
  大君の勅命かしこみうつくしけ眞子が手離れ島傳ひゆく
  大君の勅命かしこみ意宇(おう)の浦をそがひに見つつ都へ上る
 そしてこの「大君の勅命かしこみ」といふ言葉は當時の人々、殊に防人等にとつては痛切なひびきを持つた言葉であつたに違ひない。恐らく現代の我々には想像のつかぬほどのものであらう。慣用語でありながらなほ命の籠つてゐることを覺える。
 この歌「わぬ取りつきて言ひし(○○○○○○○○○○)」に無限の感情が吹きこめられてある。「言ひし」とは一體どんなことを言つたのであらう。勿論この場合饒舌であらう筈がない。身にしみて忘れ難きことを只一言云つたので、それも文字にしては恐らく意味をなさぬほどのはかな言であるに違ひない。そこが我々には無上に有難いのである。ただ「言ひし」の素朴純眞は後代人の得て學びうべきところでない。
 この歌別後の述懷であることは結句の「はも」がそれを證してゐるが「……出で來れば」と強く現實性の言ひ方をしたのは過去(無論遠い過去ではない)の事實がなほ目前のことのやうに作者の心を動かしてゐるのである。そしてこの「出で來れば」と「はも」との間に些かの間隙がない。實にいい歌であつて何回誦しても興が盡きぬのである。
  筑紫へに舳向(へむか)る船のいつしかも仕へまつりて國に舳向(へむ)かも(萬葉集二十卷)
 作者若麻部(をみべ)岑羊は物部龍と同じく茨田連沙禰麿に帥ゐられた防人の一人である。
 「筑紫へに()向る」「國に舳()かも」と一すぢに船にことよせてゐるのがいかにも幼くて貴いところだと思ふ。自分をこの作者の境遇において考へるといよいよこの歌のありがたさを覺える。とてもかうした素朴な心持にはなれない。
 しかもこの歌は實に巧みな歌である。一二句を受けて「いつしかも仕へまつりて」と大きく出てそれを直ちに「國に舳向かも」と呼び戻した妙味は何とも云ひ難い。われわれから見ると複雜きはまることを無造作に單純化してゐる。それがみな自然に行はれてゐるので何ら作為のあとがない。
 防人の歌は時代から云へば萬葉の末期であるが實に純眞素朴な感じがする。ここにその佳作とおもふものの中二首を抄出したのである。          (アララギ 大正十一年十二月號)

 
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