作歌餘録         土田耕平


 正岡子規歌集を制作の年代順に讀んで見るに、三十一二年頃初期の作は、寫生の歌以外に題詠があり空想歌があり、取材の範圍が極めて多方面に渡つてゐる。それに伴つて用語は頗る多端であり句法は縱横の變化を示してゐる。それが三十四年から五年と晩年の作風に到ると、すべての點から見て單純な一すぢの道へ入つて行かれた。即ち取材の方面を云へば、病床觸目の事物を寫生するにとゞまり、用語句法の方面は、純粹に古語古調となり、そして作歌の數は著しく減じてゐる。なほ云つて見れば外面の「新らしみ」を減じて古典的歌風に落ちついて行かれたと云へようか。この變遷は一面子規の性格素養乃至病生活によること勿論であるけれども、實は短歌本來の道行きは、人によつて大小遲速はあるにしても、結局かういふのが本然でないかと考へ得るのである。
 子規の如き大才にあつては、その一代千餘首の作いづれの一首を取るも、皆それぞれー生きどころのあること眞に驚くべきであるが、觀照者の要求を極度にとりつめて行くとき、最後に晩年の作幾首かゞ殘ることになる。初期の作にあらはれた多種多樣の「新らしみ」の如きは、これを晩年の秀作の前に置くとき、味ひの深さに於て勿論比すべくもなく、たゞ過程中のものとして意味を持つに過ぎない。それほどの差が生じてゐるのである。
  くれなゐの梅ちるなべに故里に土筆つみにし春しおもほゆ(詞書略)
  つくし子はうまひとなれやくれなゐに染めたる梅を絹傘にせる
 用語から云つても取材から見ても、極めて平淡な謂はゞ白湯の味にも喩ふべき歌である。しかしこれこそほんたうの歌であり、こゝに人一個の性命が盡されてをり、短歌の到り得る極究の世界であると云つてよいのではあるまいか。いく度よみかへしても厭きることなく、心の奧底まで射してくる幽かな遠い光がある。
 これは子規一人に限らず良寛・宗武・元義・實朝・西行にしてもまた左千夫・節等にしても、その尤作として中心に位すべき何首かの歌は、平淡な單純一圖の作が多い。萬葉集にあつてもいよいよすぐつて見たら、一味(ひとあじ)に透つた一見平凡の作が代表歌として、我らの前に立つであらうと思はれる。
 自分は未だ多慾であつて、末端の技に多く心を勞してゐるけれど、時に目をうつして古來の秀作を仰ぐとき、曙の星を見る如きすがすがしさを覺える。短歌に於ける「不易」の世界が嚴としてそこに存してゐる。一色に澄み切つたその冷たい空氣にふれることなくしては、千首萬首の作といヘど束の間に時の奔流に洗ひ去られてしまふのだ。
 構へて不易をめざし古典をよそほふものに、眞の力の添はう筈はない。たゞ歌三十一字形の義理を詮じつめて行けばおのづから寂しい單純の一本道に出でる。止むに止まれぬ道行きなのである。

 眞の古典藝術は山間の深い沼水にも喩ふべきである。永久に新しかるべき「青」がそこに湛へてゐる。最も古くして最も新しいのが古典である。子規の晩年の歌には初期に見るやうな目新らしさは失せてゐても實は萬古ゆるぐことのない古典の新がきざしてゐる。心をひそめて見るでなくては覗ひ知るを得ない「新」である。古典のさびた品位にこもる新らしみ、それは何とも形容しがたきものである。
 歌の道は子規に極まり萬葉に極まる。歌の源泉であり同時に究極地である。
「單純化」は短歌制作の關門とも云ふべき至要のものである。それは十を五に約し二を一に約す如き順を追うた數理的のものではなく、直ちに五をつかみ一をつかむ。云ひかへれば一氣に自然の中核を捉へる氣あひを指すのである。「複雜」に對する「單純」ではない。さらに絶對的のもの、自然の眞性命は必ず單純に透つてゐるその唯一の境地を捉へるのが短歌の單純化である。一首上取材の單純、意味あひの單純を指すにとゞまらず、その源に一心の火が點じてゐるか否かが最要の問題なのである。
 天地の大にむかふとも一草一葉の微にむかふとも、一心の熱火を隅々まで滿ち渡らせる氣根、それが短歌制作の單純化である。
 短歌はその時代々々に件ふ思潮と最も交渉少なき藝術であるとは、すでに人々の説破してゐるところである。さらに短歌は作者個性の表出に於て、諸藝術に比し優位に立ち得るであらうか。萬葉にはその作者の如何を判じがたく時に男女の別すら判じがたくして、しかも優秀なる作の數あるを思ふとき、短歌の形式は必ず個性表出に利ありとは云ひ難い。
 短歌は時代の思潮流行を超絶すると同時に、往々作者の個性すらも超絶すべき性質の藝術である。時代以上個性以上、廣茫限りなき世界が、短歌三十一字形の表現を待つと見るのも、また一面の眞ではあるまいか。哲人スピノーザは、エチカ出版に際し、眞理は個人の有に非ずとしてそ署名を厭うたとのことであるが、短歌の究極にもさういふ無慾の境地をおいて考へること不自然であるまいと思ふ。
 久方の天のかぐ山このゆふべ霞になびく春たつらしも(萬葉集)
                          (大正十五年八月、短歌雜誌第九卷第八號)
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