山家集散見抄    土田耕平

 
 私は長い間西行の山家集を一向つまらぬものと思つてゐた。時折繙いて見てもすぐ倦きが來て抛つてしまふのであつた。自分の道を拓くことにのみ腐心してゐて、自分の目標とかけはなれたものは存在の意味すら持たなかつた。それがこの一年ほど幾分心持に餘裕ができて、何求めようとするのでなく只ながめよう、鑑賞しようとする氣持になつて、新らしく山家集を繙いて見た。以前見てつまらぬと思つた歌は今見てもやはりつまらない。しかしさういふつまらぬ歌はずんずん素通りにして讀んでゆくと、中にはこれはと思ふ歌に突きあたる、そこへ印をつけて又讀んでゆく。到頭全部よみとほした。戀の題詠歌はいかにも面白くないので、一度しか讀まなかつたが、その他の歌は再三目をとほした。自分のいいとして印をつけた歌だけを今度は少し念入りに讀んで見る。するとそこに、ある一貫した調子西行調ともいふべきものが感得される。私は大いに見なほした氣がした。
  ほととぎす聞きにとてしもこもらねど初瀬の山はたよりありけり
  なほざりに燒きすてし野の早蕨は刈る人なくてほどろとやなる
  おのづから音する人もなかりけり山めぐりする時雨ならでは
  昔見し野中の清水かはらねばわが影をもや思ひ出づらむ(詞書を略す)
  杣人のまきのかりやの下臥しに音するものはあられなりけり
  さゆる夜はよその空にぞをしも啼く氷りにけりなこやの池永
 これはその一部に過ぎないが、單にこれだけ讀んで見ても西行獨特の調子はあきらかに窺はれると思ふ。萬葉集及びその系統の歌集にはまづ求められぬ調子であつて、佛教無常感に深く浸されてゐた當時代の反映なのである。非現實的な瞑想的な果敢ない寂しい感じ身を佗び自然を佗ぶる心、それが西行の主調であり又當時代の色調ではあるまいか。萬葉集にも寂しいしんとした歌は數々あるがいづれも單純に一氣に透つてゐる。これにはいたみ破れたものの悲哀があり現實を囘避した人の心弱さがある。そこに爭ふことのできぬ基調の相違が認められる。そしてこの西行調、もつと廣く云へば新古今調を深めて突きつめて大成したのが芭蕉の俳句であると思ふ。
 西行の歌と芭蕉の句とを比較して見ると、芭蕉の方がキメ(、、)が細かで調子が繁つて居て無駄がない。芭蕉は西行の歌集を耽讀したやうであるが、その歌のいい方面だけを受け繼いで感傷的なひねりこねりした惡い方面(西行の歌にはこの惡い方面が多い)を少しも取り入れなかつた。これは實に偉いことである。しかも芭蕉はそれを自ら意識してはゐなかつたやうに思ふ。「奧の細道」を見ると、汐越の松の條に西行の歌「終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」を引いて『この一首にて數景盡したり。もし一辯を加ふるものは無用の指を立つるがごとし』と云つてゐる。これに類した例はまだ他にもある。芭蕉は山家集の歌は殆ど批評を加へることなく盲目的に信仰してゐたやうに思はれる。そしてこの盲目的の信仰は芭蕉自身の藝術に少しも災する處がなかつた。ここはよほど考へて見ていい處だと思ふ。
 芭蕉は西行の藝風を受けて大成した人だと私は云つたが、それでは西行の歌は全く芭蕉の下積みと見べきものか。決してさうは思はない。芭蕉がいくら偉いにしてもやはり西行はどこ迄も西行獨特の調を持してゐる。芭蕉に比べて甘いところがあり粗笨のところは見えるが一方狂的な夢幻的な分子が勝つてゐた人であるやうに思ふ。芭蕉の遁世の原因は主君の早世にあると云はれてゐるが、西行の方は原因がよく分らぬ。出家する時妻子を縁から蹴落したといふやうな話も傳つてゐる。芭蕉は華美な元緑の世にゐて自らかたく身を持して枯淡な生活を遂げたが、西行は有為轉變の時代に生れてその無常感の中に流蕩した形が見える。惡作駄作の多いのも一面興味のあるところだ。西行一代の歌はその制作年次を明らかにすることができたなら、色々新らしい發明もあらうと思ふが、今はなほ審でない。
  よこ雲の風に別るるしののめに山とびこゆる初かりの聲
  心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ
  時雨かと寢ざめの床にきこゆるは嵐にたへぬ木の葉なりけり
  さまざまに花さきたりと見し野べのおなじ色にも霜枯れにけり
  ひとり住む片山かげの友なれやあらしに晴るる冬の夜の月
  山おろす嵐のかぜのはげしきをいつならひたる君がすみかぞ(詞書を省く)
  松がねの岩田のきしの夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
  雪ふれば野路も山路もうづもれてをちこち知らぬ旅の空かな
  あられにぞものめかしくは聞えける枯れたるならの柴のおちばは
  身にしみし(をぎ)の音にはかはれども柴ふく風もあはれなりけり
  老いづとに何をかせましこの春の花待ちつけぬわが身なりせば
  夕ざれやひはらの峰をこえゆけばすごく聞ゆる山鳩のこゑ
 かういふ歌はまだまだいくらでも拾へるのである。

 山家集の歌はその制作年次が殆ど分つてゐない。詞書によつて略々推定のつくものもあるがそれは極少數である。しかし一首の歌風をしらべて見ると、初期のものか晩年のものかといふ位の見當はつく
  くやしくも賤がふせ家とおとしめて月のもるをも知らですぎける (イ)
  ひとりすむ片山かげの友なれやあらしに晴るる冬の夜の月 (ロ)
  ひとり住む庵に月のさしこずば何か山べの友とならまし (ハ)
 ここに題材の類似した歌を三首ならべて考へて見る。(イ)は何か一癖つけなくてはすまぬと云つた處があらはに見えてこれはどうしても若い時の作である。(ロ)になると調子に強く透つた處が見える。「あらしに晴るる冬の夜の月」といふ句は平凡でない。西行獨特の調子が鮮明に出てゐる。私が前に西行の人格を狂的夢幻的と云つたのもかういふ風な歌を通じて感得したのである。それでこの歌は中期の作と推定する。(ハ)になると歌がずつと落ちついてきてゐる。奇拔のことを云はうとせず親しみのある沁々とした調子に至つてゐる。これは老境に入つた後の作であらうと考へられる。年とともにだんだん歌風が垢ぬけして行つたことは確かである。
 けれども山家集の歌はその本質から云つて良寛のやうに枯淡には到底なり得なかつたものと思はれる。
  時雨かと寢覺めの床に聞ゆるはあらしに耐へぬ木の葉なりけり (西行)
  秋もややうらさびしくぞなりにける小笹に雨のそそぐを聞けば (良寛)
 つまり西行の歌には癖があり神經質なところがありそして詠風にどことなくきはどいところがあつて良寛の歌のやうに渾然とした趣きがない。しかしそこが又西行の西行たる所以で雨風に傷み易い芭蕉葉のやうないたいたしさが一面人をひきつける力となつてゐる。
  ほととぎす聞きにとてしもこもらねど初瀬の山はたよりありけり
 西行の歌もここ迄來ると全く澄み切つて一點の間隙もない。そしてこの珠玉のやうなうるほひのあるあはれ深い歌品は、前に述べた西行の弱味とも弊所とも云ふべき神經質の傾向を深く押しつめたところから出てゐると思ふ。私は最初この一首を見出したことによつて、ほんとに山家集をよんで見ようといふ氣になつた。この歌の据り方は萬葉にも實朝にも又良寛にもない。どうしても西行でなくては詠めない歌だ。西行の一癖ある歌風は結局かういふ處へ到達すべき性質のものであると思ふ。まことの藝術は皆深く寂しく澄み湛へた處へ行つて落ちつく。もし又この落ちつき迄達し得ぬにしてもつまりはそこへ落ちつくべき素質傾向を示してゐなくてはならぬ。山家集はずゐぶん缺點の多い歌集ではあるが、やはりこの藝の奧堂へ足さきを向けてゐる。一歩はたしかに踏みこんでゐる歌集なのである。

 良寛は始め山家集を學び後に萬葉に移つたことは明らかである。山家集の歌を摸してゐる頃の良寛は、西行には及ばなかつたと思ふ。西行の特色である顫動と滲到性とを受け傳へることができずに、おほまかな概念的な作風を得た。良寛は萬葉に目をつけるやうになつてから眞に透徹した一家の風を作したので、西行の長所をよく傳受した人は俳人芭蕉である。芭蕉と良寛と二人の作風に何か相通じたものがあるのは、兩者の生活樣式の類似と、同じく佛教の人生觀に生きてゐた人たちであることに因るのであらう。よく觀察すると良寛は萬葉系統の人であり、芭蕉は西行系統の人であり、よほど作品の色合に相違がある。只まことの藝術はその奧底に至つて必ず共通するものであることは云ふまでもない。
  老づとに何をかせましこの春の花まちつけぬわが身なりせば
 この歌は西行の作では癖のないむしろ平凡の作である。良寛はかういふ歌にはさつそく融通できたものらしい。
 當時の歌人は主として題詠によつて作歌してゐた。西行もその數に洩れないので題詠歌がなかなか多い。ただ西行は常に旅をして自然に親しんでゐたから、同じ題詠歌であつても他の歌人達のそれとはよほど趣きを異にしてゐる。前述のほととぎすの歌にしても「山寺の子規といふことを人よみけるに」といふ詞書を見るとやはり題詠歌である。しかしこの歌には題詠歌につきまとふ厭なところが少しもない。どこ迄も自分の經驗に根ざしてゐるので想像で補つた分子はない。「さまざまに花さきたりと見し野べのおなじ色にも霜枯れにけり」の如き佳作もやはり題詠歌であつて、「野の渡りの枯れたる草といふことを双林寺にてよみけるに」といふ詞書がある。それ故課題によつて詠んだ歌が必ず惡いとは云へぬ。要は作者の態度如何によるものである。自然の風景を目の前に見ながら詠んだ歌でも、作者の感受が粗漫であれば、ただ自然の輪廓を捉へたにすぎぬ歌となる。課題によつて一心に思ひ入つた歌には劣るのである。
(私は近頃題詠歌に特殊の面白味のあることを考へてゐるがそれは又別に書いて見たい)
 山家集には戀の題詠歌がずいぶん澤山ある。これは山家集に限つたことでなく、當時の歌人は.皆戀の題詠歌をよんでゐたのだから、西行もその顰にならつたものであらう。西行は出家前には妻子があつた人ゆゑ戀の經驗がないとは云へぬ。又出家後の西行に戀がなかつたとは斷言できぬ。ただ西行の戀歌は題詠歌の臭味をたつぷり持つてゐる歌ばかりで全く言葉の遊びだといふ氣がする。出家後の西行は時流を超越して戀歌になど筆を染めなければよかつたことである。
 西行は又當時の官位にある女房や世を逃れた女人らと歌の贈答をしてゐる。それは多く無常のこころを歌つたものであつて所謂戀歌ではないが、廣い意味のしたしみ歌の部に入るべきものである。さういふ歌には素直に心持の透つた佳作がある。
  山おろす嵐のかぜのはげしきをいつならひたる君がすみかぞ
 これには「待賢門院の局よをそむきて小倉山のふもとに住侍りける頃云々」といふ詞がある。男女を間はず對詠歌にはいいものが見受けられる。
  何となく都のかたと聞くそらはむつまじくてぞながめられける 
(あかしに人を待ちて日數へにけるに)
  松がねの岩田のきしの夕すずみ君があれなとおもほゆるかな 
(夏熊野へまゐりけるに岩田と申す所にすずみて下向しける人につけて都へ同行に待りける上人のもとへつかはしける)
  おぼつかな春の日數のふるままにさがのの雪は消えやしぬらん 
(嵯峨へまゐりたりけるに雪ふかかりけるをみおきて出したことなど申遣すとて)
  嵐ふくみねの木の葉にともなひていづちうかるる心なるらん (秋とほく修業し侍りける程にほどへける所より侍從大納言成道のもとへつかはしける)
  さだめなしいくとせ君になれなれて別を今日は思ふなるらん 
(年久しく相たのみたりける同行に放れて遠く修業してかへらずもやとおもひけるに何となく哀にてよみける)
  ほどとほみかよふ心のゆくばかりなほかきながせ水ぐきのあと 
(ある女房への返し)
  世の中をそむくたよりやなからましうき折ふしに君があはずは 
(さぬきにて御心ひかへて御世の事御つとめひまなくせさせおはしますと聞きて女房の許へ申しける此文をかきて若人不瞋打以何修忍辱
  ながらへて遂にすむべき都かは此世によしやとてもかくても 
(是もついでにぐしまゐらせける)

 芭蕉にとつて山家集は經典にひとしいものであつたと思ふが、自らは殆ど題詠の句を詠まなかつた。みな實景實情の上に立つて作句した。又西行が歌をやすやすとよんだ風を模することなく自らは苦吟に苦吟を重ねた。勿論戀の句などはよんでゐない。どうも芭蕉といふ人は偉かつたのである。                           (アララギ 大正十三年二月號、同三月號)
 
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