新春の句と歌    土田耕平

 
   
   日の光今朝や鰯のかしらより    蕪村
 一讀してさつと心に入つてくる快さがある。鰯の頭も信心よりの俗諺を、蕪村一流の大膽の手法で活かしてゐる。才氣はつらつとしてゐて、少しも厭味を覺えしめないのは、この天才の徳分とでもいはうか。すがしき新春の光の下に我も人も共に祝ひたき心持である。
   薦を着て誰人います花の春    芭蕉
 芭蕉の作になると、しみじみと落ち付いて品格を具へてゐる。年の初めにあたつて、早くも斯ういふ奧深い情趣を汲みとつてゐる。「都近き所に年をとりて」と詞書が添へてある。「花の春」といふ言葉は、これだけ取離しても非常によい感じがあり、わが日の本のかんばしき姿ともいふべきである。
   おのれやれ今や五十の花の春    一茶
 芭蕉の世界とも違ふし、蕪村の世界とも違ふ。一茶の才氣は幾分俗臭をまぬがれないが、可なり放縱な野性が基調をなしてゐるから、やはり一家の風格を成してゐると思ふ。「年立や雨おちの石(くぼ)むまで」同じ作者にかういふ地味な句もある。
   元日の人通りとはなりにけり    子規
 これは有名な句で、子規門の俳人から細く吟味された句である。眼のつけどころの確なところ、調べの張つてゐる所、作者の本領を發揮してゐる句の一つと思はれる。
   枕べの寒さはかりに新玉の年ほぎ繩をかけてほぐかも    子規
 同じ作者のこれは歌である。前の句が題詠的であるのに較べて、實生活に即いてゐる點で、より眞實が深い。苦しい病床にあつても、頭が利いてゐて細い大切なものを見逃さずに、かういふ新鮮な新春詠をまとめてゐる。「うつせみのわが足痛みつごもりをうまいは寢ずて年明けにけり」
同時に詠まれた歌であるが、調べが求心的で更に一層深く、作者の境涯をしのばしめるものである。
   わが室に子ども騷げどもうるさからず物書きとほす元日二日    赤彦
 「氷魚」時代の作者が、制作又制作と非常な精進をされてゐた頃の歌で、新春の歌詠もかうして現代のものになると、實際の生活を力強く藝術化してゐる。上の句などはこの作者の到達した至境からいへば、幾分外延的の氣味があるが、大柄な心がゆらいでゐて、親しみ尊ばるべきものと思ふ。
   あたらしき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)    家持
 家持萬葉集卷末最後の一首であるから、誰の眼にもとまつてゐて名高い。宴席の歌として見れば、技巧もさすがに手に入つてをり、明るいほがらかな感じが透つてゐる。新年の歌が制作として、現はれてきたのは萬葉の末期である。
   きはまりて貧しきわれも立ちかへり富み足りゆかむ春ぞ來むかふ    元義
 萬葉調歌人平賀元義の歌である。元義が年老いて後、仕官のよい口が與へられた時の作で、やはり實に就いてゐるから、習得された萬葉調と相俟つて、常に滿ちた動きが見受けられる。以上心に浮ぶまゝ新年を詠んだ句と歌を取並べて見た。それぞれの作風にあら玉の年立つ春の世界が、色々な角度を示してゐる事が、感受されて面白い。同じく新春の句や歌でも、前以つてあらかじめ作られた作がある。さういふのはまた別にして鑑賞しなくてはならない。
                                   (信濃毎日新聞 昭和十五年一月)
 
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