短歌の取材範圍    土田耕平

 
 古人の歌集を讀んでそして今どきの歌集を讀むと、歌の取材範圍が非常に廣くなつたことに氣がつく。自然人事を通じてありとあらゆる事物が歌の形式に盛られてある。しかしそれは單に三十一字形に纏つてゐるといふにとどまつて、まだほんたうの藝術になりきつて居ないものが多い。歌壇はあまりに多くの滋養物を攝取しようとして消化不良に陷つた形である。暫らく斷食して若しくは減食して消化器能の健全を計るのが急務であらう。
 短歌にはおのづから短歌の性がある。性に合うたものを取り入れてそれを充分に消化し表すことが出來れば短歌の本分は遂げられたといふべきである。魚の木登りを望む如き愚は避けたい。短歌の取材範圍がどの邊で限らるべきかは制作實行の苦勞によつて漸時悟れて來ると思ふ。短歌の形式では到底あらはし難い境地がある。たとへあらはし得たにしてもそれ程明確にいかぬものがある。それが他の藝術形式の中に手際よく鮮やかに表出されてゐる。さういふものは他の藝術に委せておいて、短歌は短歌によつてのみ表はし得る境地をめざすのがいい。いづれかと云へば短歌の取材範圍はさう廣くはないのである。日常われわれの目にふれるものの中短歌の材となし得るものは九牛の一毛にも等しい。短歌作者は雜貨商の眞似することは止めて寶石商となつて一個の玉を惜しむものである。
 もともと短歌は時代相とか個人の性格とかそんなところは突破つてもつと奧ふかく常住の姿を捕ふべきだと思つてゐる。飛行機とか活動寫眞とか又は民本主義とか普選運動とかさういふ時と共に流轉する事物はおそらく短歌の題材ではない。われわれは短歌作者として一坪の庭を眺め暮してゐても事足りるのである。心が澄みたらぬため眼ばかり外へ向いてゆくのは恐ろしい。
                                 (アララギ 大正十一年七月號)
 
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