秋情    土田耕平


 芭蕉は元祿七年十月十二日(舊暦)に歿してゐるが、その前月二十一日に
    この秋は何で年寄る雲に鳥
といふ句を作つてゐる。芭蕉の死は五十一歳であるから、先づ早世といふべく、且疫痢のための急逝であるから、この句を作 る時に、よもや二旬の後に死が迫つてゐるとは、豫知すべき筈もなく、遠く長崎あたりまでを望んでゐた旅途の作である事が知られてゐるのであるが、一句のうちに何ともいへぬ寂寥の氣が滿ちて、人生の晩景を沁々感じさせられるものがある。
 この句はよく味つて見ると、仲々むづかしいところがあつて、噛みしめ噛みしめしていくでないと、底味を汲むことが困難である。一體に芭蕉の句は、すでに野ざらし紀行あたりから、むづかしいところがあつて、蕪村の句のやうにすらすらと明快に來ない。たゞ一句を味ひ解くにも可なりの時間を要する場合が多い。これはその句が未熟生硬といふためではなく、言葉の行りかたに、伏線ともぼかしともいふべき性質があり、内容からいへば、深く思ひ入つた奧行のあるためで、これは芭蕉の句を通じての持味であると思ふ。スピノーザが「すべて貴きものは稀であると共に困難である」と言つた意味に通つてゐる性質のものである。
 「何で年寄る」の七文字の、その語意から見ても、二通りにも三通りにも異解が生じさうであつて、餘程念をこめて吟じ入るでなくては、その句の心持に同化することが困難であることを覺える。
 「雲に鳥」は眼前觸目の事象と見るべきか、作者の心中に凝つた象徴と見るべきか、言ひ換へれば作句動機が眼前の事象に因つたものか、作者の思念にあつたのか。かういふ問題も、一應必要となつてくる。私はその後者の方に取つてゐるのであるが、この「雲に鳥」は新古今に見る如き朦朧とした不徹底のものでなく、深い寫實の精神の上に立つてゐるから、動かすことのできない重みを覺える。芭蕉に於ける象徴味は、この句に限らず、凡てを通じて寫實の精神に立脚してゐることは、最も注意されることで、新古今に一つの立脚點を持ちながら、新古今の持つ現實遊離の弊に陷らず、むしろ古事記や萬葉古代の歌風にも通ふ、重厚味を具備してゐることは、殆ど驚異に價する芭蕉の偉さであると思ふ。(芭蕉の遺語として俳諧は萬葉集の精神なりとあるのは、勿論後人の僞作であつて、芭蕉は萬葉を讀む機運には惠まれてゐなかつた)  芭蕉のこの一句は、その一代句集の中でも、最も貴ぶべきものの一つであり、容易に批評しがたいものであると思つてゐるが、この頃の晩秋寂寞の期に際して、この句に對すると、何となく自分や他のある人々の為に殘してくれたかのやうな、藝術に對する感謝の情を禁じ得ないものがある。               (信濃毎日新聞 昭和十四年十一月) 
  
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