短歌の形は小さいけれども佳作一首の持つ味には云ひ知れぬものがある。それだけ制作の勞は深く藏されてゐるわけであつて、苦勞が多ければ多いほど外に目立たなくなる。「太[
作者の歌は今まで「硬い」一面と「脆い」一面とがあつて、並々ならぬ作者の努力を以てしても容易にその調和が來されぬもののやうであつた。力を張りつめたものは硬くなり稍調子を落したものは脆く弱くなつた。「切火」から「氷魚」の初期には脆さが目立ち「氷魚」の後半に至ると硬さが目立つてゐる。その硬さは「太[
五月雨の小止みとなりしひまもなし桑原とほく音して降り來
わが庭に松葉牡丹の赤莖のうつろふころは時雨降るなり
高槻のこずゑにありて頬白のさへずる春となりにけるかも
春雨の雲のあひだより現はるる山の頂は雪眞白り
冬空の晴れのつづきに落葉したるから松の枝細く直なり
みづうみの氷は解けてなほ寒し三月月の影波にうつろふ
高山の木がくりにして鳴く鷽の聲の短きを心寂しむ
かういふ歌は澁く枯れ澄んで自然の奧底に徹したものであると思ふ。作者は屡々自らの歩みの遲いことを口にせられたがこれは謙遜の意味とともに一面大きな自信を持つた言葉に違ひない。早く生長し早く老朽ちてしまふ人々の多い現今の文壇にあつて、著者の如く鈍重な力強い歩みをつづけてゐることはまことに稀有なことであり、それ故にこそかういふ高く蒼古の匂をこめた作品を成し得たものと言へるであらう。
太集のうちには佳作として拾ふべき歌は非常に數多いと思ふが、そのうちにも著者が日常親んで居られる信濃の自然を詠じたものに最も深い落ちつきがある。それに比べると外行きの歌、たとへば奈良、滿洲、また震災を詠じたものには「硬」「脆」の難を加ふべき點が未だに見受けられる。就中時事を詠じたものにその難が多いのであつて、私はむしろさういふ種類の歌は集中から全然棄て去つてもらひたく、一層著者がかういふ歌に筆を染めなかつたらなほ有難いのである。もつと棄て身になつてかかるか、或は洒脱に徹するかいづれかでなくては詩として價値は乏しい。そこへ行くと左千夫の時事歌の方が遙かに眞劍で徹底してゐると思ふ。なほ集中人におくる歌に常識的に脆くなつてゐるものの多いことも著者に考へていただきたい點である。
技巧の點から云つても太集には到りつくしたと思ふ歌が多い。それは著者がたゆまざる自然凝視による詞句の鍛錬から來たものであつて、一見重苦しい堅固な据り方をしてゐる。縱横から叩きつめ練りつめてもはや動かすことのできないところへ行つてゐる。齋藤茂吉氏が引用された「野分すぎてとみに凉しくなれりとぞ思ふ夜半に起きゐたりける」の如き、可なり無理押しの句法をここまで言ひつめてしまつた作者の意力に驚くのであるが、自分はかういふ歌には心からの親しみは覺えられない。太
(アララギ 大正十四年十月號)
※太集)は、1924年(大正13年)に刊行された恩師島木赤彦の第4歌集