短歌と地方色    土田耕平

    

 上伊那木下の人で木下清子といふ若い女歌人があつた。大正十年の暮れに年齡わづかに二十一歳で長逝されたのはいたはしい限りであるがその遺詠二百首は人々の間に傳へられてゐる。私はその當時東京にゐたが清子の義兄にあたる人からその遺詠を送つていただいて讀むことが出來た。歌を始めて二年になるかならずで亡くなられたのであるからその歌はなほ幼いところがあり技巧の點にも足らぬところは多くあつた。しかし歌柄がいかにも素朴で純眞で若い女の持つ情味の柔かさがあつた。そして又一面に悲しい境遇に立つてよくそれに耐へてゐる人のけなげさが見えた。それは勿論完成品ではない。けれども淨い貴い芽生えであることを思はせた。その芽生えは自ら伸び榮えることなくして終つたが人々の心のうちに永く生きて行くことであると思ふ。
 その翌大正十一年の夏、私は清子の郷里木の下から一里許りの下古田で三十日あまり暮らしたことがあつた。上伊那は辰野から高遠邊は數囘通つたことがあるが、ゆつくりその地におちついて見たのはそれが始めてであつた。上伊那の自然と人情に親しくなつて見て私は清子の歌に對して更に新たなる感を起した。と云ふのは清子の歌が上伊那の地方色をよくあらはしてゐるからであつた。澄んだ落ちついた少し明る味の勝つたその地の色あひが清子の歌の調子にそのまゝ移されてゐるといふ氣がした。清子は上伊那の名山である駒ヶ嶽を歌つてゐるのでもない。天龍川の景色を歌つてゐるのでもない。畑の耕作とか小川の水音とか鉢植の草花とかいかなる地へ行つても見受けられるありふれた自然を歌つてゐる。その歌の材料は決して上伊那特有のものではない。しかもその歌の調子は上伊那の自然をよくあらはしてゐる。そこが私にはありがたく思はれた。
 短歌にその作者在住地の地方色があらはれることは最も望ましいことであるが、實際の創作問題になると容易でない。その土地特有の景色や氣候を材料として歌うたといふだけでは駄目だ。それは土地の輪廓をうつしたといふに過ぎない。たとへば諏訪湖や八ヶ嶽を歌材にしたからそれで諏訪の地方色が出るとは云へぬやうなものである。心をひそめて其の地の自然の機微によくよく親しみ入つた人であつて始めて其の歌に地方色が出る。それは恐らく作者自ら意識しないものであらう。木下清子の如きも自らは意識することなくしてあのやうに自然の純粹に上伊那の地方色を具へた歌を作したものと思ふ。
 謙遜な心持になつて自然に親しむこと、それが歌作の第一歩でありまた同時に最後の到着點である。本紙歌壇へ歌を寄せられる人々は、諏訪の自然にもつともつと親しみ溺れて欲しいといふ氣がする。
(大正十年一月十七日 南信日日新聞所載 アララギに掲載されたのは大正十年八月より十五年三月までである。其の三月號に遺詠二百首中から四十六首選拔掲載された。) 

 
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