禿筆雜記    土田耕平

 
       牡丹二句

 此頃子規句集を繙いて初めの方から順次目をとほして行く中に春季牡丹の句の一つに、
   二片散て牡丹の形變りけり(○○○○○○○○○○○○)
 といふのがあつた。一寸興をひいたので鉛筆で印をつけて置いて後にまた讀み返して見た。最初はそれ程に思はなかつたのが二度三度とよむにつれて段々よくなつてくる。尋常の作ではないといふことに氣がついた。同じく牡丹の散花を詠んだ句に蕪村の作で
   牡丹散てうち重なりぬ二三片(○○○○○○○○○○○○○)
といふのがある。これは數年前氣が付いてその後常に嘆誦してゐた句であつたから今度子規の句を見出したに就て兩句を對比して味つて見た。
「二片散て」「牡丹散て」と類似した初句を持つてゐるがそれ以下「うち重なりぬ」と大袈裟に云つて「二三片」と何氣なく結んだ句法は蕪村の手腕を高く示してゐる。子規の方は「牡丹の形變りけり」といふのである。これは又いかにも平凡であるがこの平凡なところが及び難いのでこの場合「形變りけり」とは子規でなくては決して云ひ得ない。蕪村が「二三片」と何氣なく置いたのは實は句の效果を豫想した上のことでそこに技巧のたくらみがある。子規の何氣なさ(、、、、)は決して效果を豫想したそれではない。ただありのままに述べたのであつてそこに少しのたくらみもない。
 牡丹の花が二片散て花の形が變つた、とこんな些細なことは健康者の生活に於ては殆ど意味をなさぬのである。けれども病牀六尺をわが天地としてゐる子規に取つては仲々重大事であつた。我々に思ひ及ばぬほどの靜肅さを以て枕頭の落花に對したことと察せられる。この句が一見平凡でありながらしかも深い味はひをひそめてゐるのは眞實作者の呼吸(いぶき)がかかつてゐるからである。
 蕪村の句に於ても、牡丹の散花が二三片重なりあつた、といふ極めて些細な出來ごとを重大視してゐる點は子規の句に於けると同じである。しかし蕪村の方は大きな目で牡丹を睨んでゐるやうなせころがある。子規が平常な態度で眺めてゐるのとは大分趣きを異にする。蕪村は牡丹の散花を重大視しながら自らそのことを意識してゐる。子規は自分では意識せずに重大視してゐる。何と云つても子規は病人であるから蕪村よりも眞劍な心持に住してゐたに相違ない。蕪村が「二三片」と置いた手際は實に見事なものである。しかし「形變りけり」は更に深い所へ入つてゐる。蕪村の句は一見して極めて鮮やかな印象を受けるが、よく見てゐるとどこかぼんやりとして(ぼか)しのかかつた氣持がするであらう。そこへ行くと子規の句はよめばよむ程あざやかになつてくるのであつて、そこにほんとの有難味がある。
 私は蕪村の句をやはりいいと思つてゐる。しかし子規の句を見てから少し興が醒めたのは事實である。(これは右二句の比較であつて子規蕪村その人の比較ではない)

       
散松葉二句

    清瀧や波に散り込む青松葉(○○○○○○○○○○○○)    芭蕉
    瀧壷や風ふるひ込む散松葉(○○○○○○○○○○○○)    子規
 芭蕉の句の「清瀧」は清い瀧といふ意味ではない。清瀧と呼ぶ瀧の名稱である。この句は芭蕉の晩年に屬する作であつて澄み切た表現にまづ心を打たれる。「波に散り込む」といふ句はよく自然の機微を捕へた句であつて眞に心を虚しくして寫生するでなくては決してかかる句は成し得ない。もう數年この方味ひ味ひしてゐるがいい句だといふ氣がする。自然そのものを見るやうな感じがするのである。
 子規の句はやはり此頃子規句集を通讀した際拾ひ出したのであつて、芭蕉の句にいかにも類似してゐるところから先づ目についた。「風ふるひ込む」といふ句もなかなか活躍した句だと思はれた。そこでなほ仔細に吟味したところ是はあまりいい句ではないことが分つた。最初見た時には芭蕉の句以上のものではないかと迄思はれた、といふのは芭蕉の句が靜かにゆとりある詠みくちであるのに較べて、これはきびきびとして言葉の働きが目だつてゐるからであつた。「波に散り込む」に對して「風ふるひ込む」はいづれとも云ひ難いが「清瀧」「瀧壷」は一方が漠然たる固有名詞であるにひきかへて一方は瀧壷といふ定限した場面を示してゐる。「青松葉」「散松葉」も一方が色を示したに比して一方は動作を示してゐるだけ散松葉の方が複雜である。かうして比較して見ると子規の句の方が豐富な内容を持つてゐるやうであるがそれは言葉を分解して見た上のことですでに一句として成立された場合には芭蕉の句の方がはるかに品位をあげてしまふのである。「瀧壷」に「風ふるひ込む」と成程理に合つた言ひ方であるが實は理に合ひすぎてゐて句柄が小さくなつてしまつた。芭蕉の句が「波に散り込む」と要所を捕へた後は「清瀧や」「青松葉」とのんびり(、、、、)と言ひ放つた句法には遠く及ばぬのである。芭蕉の句は確實に自然を捕へてしまつたから、かうのんびりできたので、子規の句はまだ捕へ方が足りないから、どこか窮屈になつてしまつた、この邊は予らの考へるべきところだと思ふ。

      
眞の敏感

 予は常に敏感でありたいと思つてゐる。自然に對しても藝術に對しても。しかし予の求むる敏感は神經衰弱性のそれではない。強く確かに物の核心に喰ひ入る敏感である。女身を見てただちに情慾を覺える如きは、敏はもとより敏であらうけれど、予の求むる敏とは違ふ。予の求むる敏は、むしろ情慾等を反撥する力を有してゐる。
 すべて慾念のあるところに眞の敏感はあり得ない。謙虚な心に住してゐる時にのみ吾人の五官が心靈に通じて眞に(さと)き働きをなすのである。このことは實驗すればするほど確かな事實として吾が日常生活の上にあらはれてくるであらう。
 予の求むる敏感は近代文學者流のそれでなくして寧ろ古代聖僧の恬淡寡慾なる心境に近きことを思ふ。「二念をつぐ勿れ」「繋念は不好なり」といふ。ここに敏感習得の祕義がある。いくら末梢神經を鋭敏にしたとて眞の敏感にはなれぬのである。     (大正九年十一月 信濃教育)

       
萬葉一首

   筑紫へに(○○○○)舳向(へむか)る船のいつしかも仕へ(○○○○○○○○○○)(まつ)りて(○○)本郷(くに)に舳向かも(○○○○○) (卷二十)
 上總の人若麻岑羊(わかをみべのひつじ)が防人として筑紫に赴く途中の作である。萬葉集も時代が末になるに從つて凡歌が多くなつて讀み倦きするやうな個所もある。さういふ中で防人の歌が嶄然頭角を抜いてゐるのは心地よい。殊にこゝにあげた一首の如きは秀れた作だと思ふ。
 この歌を見るに極めて複雜なことを極めて簡潔にあらはしてある。今の世なら「單純化」とでも云ふべきところである。しかし作者はそんなことを意識的に考へてゐるのではない。少しの計らひなしにおのづから單純化の極に至つてゐるのが後人の及び難いところだ。
 今筑紫の方へ舳先を向けて進みつゝある船が、反對に故郷の方へ舳先を向けてかへるのは何時のことであらう、それは向うの地に行つて長い務めをすました後のことであらねばならぬ。といふのがこの歌の意味内容である。船の舳先きが向きを變へること、任地へ行つて務めを果すことと、一は微細な具象的の觸目であり一は漠然たる抽象的の着眼である、これが自然に融和して一首を成してゐることは驚異に價すると思ふ。とても我々の努力では及び難い境地である。作者及びその時代の素朴さと無邪氣さとを思はざるを得ない。なほ防人歌には「行向(ゆこさき)浪音動(なみおとゑら)後方(しるへ)には子をと妻をと置きてとも來ぬ」といふのがあつて、私は右の歌と合せ味つてゐる。

       
寂しい藝術

 歌や俳句は要するに寂しい幽かな姿をした藝術である。花にたとへて見るなら、牡丹や日まはりに縁遠く、水仙や小菊といふよりも寧ろ野草の類に近い。衆人の供覽に資するにはあまりに淡々し過ぎる。トルストイ、ドストエフスキイ等の大きな小説を讀んだあとで、芭蕉、良寛等の秀品に接する時は實に不思議な氣がする。珍味佳肴に厭きた口に清水を一ぱい含んだ如き感じである。
  父母のしきりに戀し雉子の聲(高野にて) ……………………芭蕉
  わが園に咲き亂れたる萩の花朝な夕なに散りそめにけり……良寛
 これらの短詩に含まれた妙味に日本語を用ゐる日本人であつてもなかく解し得ぬらしい。彼らは默然として坐つてゐる。高慢な顏をして行き過ぎるものはそのまゝ行き過ぎさせてやる、あとから呼びとめて説法などはしない。優秀な俳句や短歌に合體するには、こちらから眞に心を虚しくして打向ふでなくては駄目である。饒舌をさけて最も大事な一言を云はうとするのが短詩の祕義であるから、現世の如く饒舌を喜ぶ時にあつては閑却されてしまふのが自然の數かも知れぬ。                                           
                                 (信濃教育 大正九年十一月、十二月號)
 
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