隨想二つ    土田耕平

       スピノザ

 十七八歳の頃のことである。自分は生涯の希望として、哲學者たらむことを志して、桑木氏の哲學概論を手初めに、西哲の著者を漁り讀んだ。しかし、後になつて考へてみると、自分は哲理を深く考察して行かうとする心持よりも、哲學者の沈思默考、世塵の外に立つた生活をいたく憧憬してゐたのであつた。故に、哲理以上に哲學者の生活態度を知悉することを念願とした。その結果スピノザといふ人を最も貴き存在として考へるやうになつた。
 彼が生涯の大著ヱチカを出版するに際して、眞理は個人の有に非ずと謂ひて、著書の署名を厭うたこと、また街頭散策の折、反思想者の狙撃にあうて、顏面に微動さへ見せざりしこと。臨終の日に家人一同を外出せしめ、親交の醫師と相對し談笑しつつ瞑目せしこと。これらの超人的態度は、未だ青春なりし自分を極度に感激せしめたのであつた。しかもかうした感激はあたかも天空の月光を仰ぎみるに等しく、あとなき憧憬たるにとどまつてゐた。唯一、自分の身に親しく觸るるを覺えたのは、彼スピノザが哲學を賣物とせず、眼鏡のレンズ磨によつて、生計の途を立ててゐたといふ事實であつた。これだけは、かの大哲を模してなりと自らの實生活に取入れむものと念じ、晝夜に思ひ耽つてゐた。隣國の甲斐には水晶を産するのであるから、甲府あたりに一小舖をかまへて水晶具を扱ひつつ、ひそかに哲學の道に參入したいと思つた。しかし薄志弱行者の例に洩れず、理想を直ちに實現し得ず、やがて身に病を得、轉地療養などしてゐるうちに、哲學に對する興味もうすれ、スピノザその人に對する思慕さへ遠のいて、茫々無為二十年の歳月が過ぎてしまつた。
 今日に到つて再びスピノザを思ひおこすこと屡々であるのは、青春時のそれとは殆ど方向を異にしてゐる。今更哲學を專攻しようとする志もなく、またさういふ能力が自分にあるとも思つてゐない。レンズ磨乃至水晶材によつて生計を立つることを、何故敢て為し得なかつたといふ悔である。若しもさうした生活に入りきつてしまつたなら、徒に空想懶惰の生をすごすこともなく、平常無事にしてたしかな日々を過して今日に到り得たであらう。然してなほ哲理に些かなりと關心あらば、實生活中の閑時に一部のヱチカを味讀し、もしくは遠く沙彌教信のごとく念々佛光を望み、世に濁り少なき生涯を過し得たであらう。
 しかし、かやうな懺悔ごころが今になつてよみがへるのも、畢竟自分の空想癖であつて、當時さうした實生活に入り得たとしても、又別種の煩悶になやまされてきたかも知れない。ただ病中のまぎれに、とりとめもなき繰りことを書き綴つて置く。

       
リーザ

 リーザは實在の人物ではない。ツルゲネフの作「貴族の家」にあらはれてくる一女性である。
 今のソヴヱトロシアとかいふものの正體は、自分の關知するところでない。帝政ロシヤの非道なりしことは、人に教へられて多少知るところもあつて、あの時代のロシヤをよしとすることは到底できないが、ただ當時の文壇の巨星を想ふときロシヤといふ國は、兎にも角にも畏敬してよい大國だといふ氣がする。數多き巨星作者の中にも、トルストイ・ドストヱフスキイの作の如き、矩模の大きく魄力旺盛に描寫力の強きことは、讃嘆にたへないのであるが、一面脂ぎつた執拗さが、私如き氣質にはある反撥を覺えさせる。
 それらに比するとき、ツルゲネフの作は氣品高く、敍述に省筆を用ゐ、これこそ眞の藝術品だといふ氣がする。しかし彼といヘどすべての作品が完璧だとはいひがたきこと勿論であつて、自分が讀破した作品中、「アーシヤ」「初戀」「貴族の家」特に「貴族の家」をもつて、彼の作品中の最高峯と感じてゐる。その中に出てくる主人公が、リーザなる十九歳の一女性なのである。總じて露文豪の作品にあらはれる人物は「オネーギン」のタチアナ以後、女性の上に久遠の光が輝いてゐるのが常であるが、ツルゲネフに到つてその極を示してゐる。
 ドストヱフスキイ・トルストイともに、そのリーザを評して、最も完全なるロシヤ型女性の代表だと云つてゐるのである。しからばリーザとはいかなる女性であるかといふに、むしろ平常淡味、他に勝れてきわだつ如き性格行為はない。奧底の方に深く自らさへ心づかぬほどの眞情が澄みたたへてゐる。それが環境の動きにつれて、おのづから光輝を放つてくるありさまはいちじるしい。しかして、作中特にリーザを描くに、作者ツルゲネフは實に、運筆を惜しんでゐるのが察しられる。リーザがわづかに一言し一動するごとに、全場面が玲瓏としてくるのである。
 リーザには、西歐文明を讃美し、才智豐かに、いはゆる人好きのする美青年の婚約者があつた。人あつてその人物を誹謗したとき、リーザはその言をたしなめてゐる。これは、リーザが萬人に對する愛であるとともに、また一面男といふものに對する不識とさへも云つてよい。しかし戀ではなかつた。リーザは必ずしも總明とは云へなかつたが、一度逢うた人に忘るべからざる印象を與へるやうな女であつた。リーザはどんな場合にも、決して怒ることをしなかつた。ただわづかに聲を低くするといふ風の女であつた。リーザは「貴族の家」に育ちつつもなほ來生の光を仰がずにはをられぬやうな女であつた。
 そこへラブレツキとよぶ純ロシヤ魂をもつた不遇の壯年者(前述婚約者よりは遙かに年上の三十餘歳になる)が現れる。リーザはこの男に屡々接することによつて、内ふかくこもつてゐた自らのロシヤ魂の熱情がめざめてくる。事件はさまざまに轉換する。つひにリーザは前の婚約者(この男の名前は忘れてしまつた)に斷然絶交する。
 ラブレツキとの戀は結局悲劇にをはり、リーザは修道院に入り、ラブレツキは野に耕作する人となるのである。今私は、作品の梗概を述べようとするのではない。ただこの作品の底に流れてゐる、限りなき純情が敢て拙き筆を運ばせたまでである。そしてこのリーザを世の多くの人々、特に若き人々に知つてもらひたい希望をもつてゐる。
  附記。自分はもとよりロシヤ語の知識がないので「貴族の家」は譯本でよんだ。その譯本も完壁でないらしいのが殘念であるが、しかし小説は詩などと違つて、心をこめて讀めば、その眞意は大凡汲めるものと信じる。この作のより善き譯本の出ることを望んで止まない。
 
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