片々記    土田耕平

 
 どこか遠い海の音が、終日耳についてゐるやうな感じのする日がある。海の音が絶えたとおもふと、溪川の音が耳に入る。これは迷幻ではない、屋前の溪流柳川の音である。しばらく川の音に聽き入つてゐて、川の音を忘れた時、又海の音が耳に入つてくる。それは、まさしく伊豆大島の海らしい。かういふ時、私は「安死樂死」を夢みる。

 梅は、その處をえらぶ。處を得れば、花二三輪で足りる。否二三輪以上を要としない、といふところに、この花の位がある。

「月がよう冴えて、星も遠いしなあ」ある女のひとり言。

    若葉しておん目の泪ぬぐはばや   (芭蕉)

 この句には、詞書が種々ある中に「唐招提寺鑑眞和尚の御影を拜し御目の盲ひさせたまふ事をおもひつゞけて」これが句の内容と相應じて、奧床かしく思はれる。も少し事實を精しく言へば、和尚佛法流布のため唐より渡來の途中、船難破すること七十餘度、潮氣をうけて盲目となられたのである。この句に就いて、故中村憲吉氏「芭蕉としては未だ圓熟したものではなからうが、芭蕉の句風のよい所は、かういふ所にある。」と云はれた。
 芭蕉此時(四十四歳)から、更に進展したと考へられる同傾向の句を二三抄出して見よう。

    行春や鳥啼魚の目は泪
    月清し遊行のもてる砂の上
    秋ふかき隣は何をする人ぞ

 眼鏡をかけるやうになつてから、レンズといふ物の曇りやすいことに氣づいた。しかし、レンズの曇りは、ぬぐへば元の無色にかへる。靜かに、レンズをぬぐうてゐると、よい想が浮んでくるやうに思はれる。スピノザが、世すぎの業として、レンズを磨いてゐたといふことは、やがて、その哲學と不離不即の關係にあつたとも考へられる。軍服の森鴎外が、秀れた文學を殘したのも、無意味でない。

 ある人が、五六行にも足らぬ文章を評して、これは長すぎる、と云はれた。それでは千行萬行の文章に對してどういふか。長すぎるとは、必ずしも、云はれぬのである。

 「星になりたい。」などといふ言葉も、子規の口から出ると、微塵も、センチメンタルにひびかぬ。

 或所に、一人の植木屋があつた。この手にかかると、詰らない木でも、生々と姿をかへて、庭のそなへものになるといふ。知人達が、その奧の手を教へ下さい、と云つて頼むと、別にむづかしいことではありません。木の方でこの枝を拂つて下さい、この枝はこの儘に、など申しますから、その通りにするだけです、と答へる。類型はありさうな話だが面白いと思ふ。

 天理教では、病氣治療の唯一手段を、ヒノキシン(日の寄進の意か)といふ。人の為に敢て勞を惜しまず、資財家屋まで投げ打つことによつて、不思議と難病が癒えるのだといふ。ある精神科の醫師が、その治病祕訣を知り度く思ひ、聖地丹波市へ出かけて、病者達にまじり、土運びやら、草むしりやらしながら、二月ばかり過した。その間の一插話である。一人の肺患者が、病苦を押して聖地まで行くことは行つたが、少しばかりの草毟りで、難病が癒えさうにもない。益々衰弱が加はり、寢たきりとなつてしまつた。治療祕訣たるヒノキシンが叶はぬのだから、布教師もその上の人達も、手の下しようがない。そこで醫師は病人を一應診察させて貰つた上「卵を一つ食べて下さい。」と云ふと、「もう四日ばかり何も喉へ通らぬ。」と云ふ。「少し辛棒してヒノキシンして下さい。」と醫師がいふと、病人は變な顏をした。「この卵食べて下さると、皆さん喜ぶ、私も喜ぶ、寢てゐてヒノキシンが出來ます。」と云つたら、たうとう卵一個を食べた。その翌日翌々日と食物を奬めてゐるうちに、すつかり勢づいてしまつた。これは醫師から、私が直接聞かせてもらつた話である。

 安易な懺悔は、安易な自讃につづくことになる。

 惡行をして、その惡なりしことを素直に感じ得ることと、善行をして、その善なりしことを素直に感じ得ることゝどちらが難いか。

 伊豆大島に「天國婆さん」と字名(あざな)されてゐる、七十あまりのお婆さんがある。
 全くの孤獨の身で、屋前にわづかばかりの梨畠を作つて、暮しを立ててゐるのであるが、年々不思議に實のりがよくて、衣食に事缺くこともない。「お蔭でな、お蔭でな」とお婆さんは、常にそれを云ふ。
 家は煤けた一間ぎりの隱居作りで、前に爐が切つてあり、奧の鴨居右手に、島娘の像(油畫)が懸けてある。これはお婆さんの孫娘であつて、今は世に亡い人である。畫面はやや年古りてくすんでゐる中に、娘の顏のもつてゐる感じだけが、はつきりと浮んでゐるやうな、また深く沈んでゐるやうな、ちょつと、名状しがたい印象を與へる。
 大島に假住してゐる若い人々が、多く「天國婆さん」を訪ねてゆく。これらの人々は大抵身に病を持つてゐる。衷なる惱みと憧れを持つてゐる純なるクリスト教徒もある。
 お婆さんは、さういふ訪れ人の讃美歌を聞くのを、地上での最も有難き事としてゐる。私は一度ある友に誘はれて、お婆さんをたづねたことがある。友の歌に聞きほれてゐたお婆さんの面特は、未だに忘れ得ない。
 お婆さんは、天國の話など、恐らくしなかつたらう人のやうに見えた、爐端にやゝうつむきに坐つてゐる。物を問はれた時、微笑を含んだ顏を靜にもたげる。言葉は極めて少い。無言と安樂とを具徴化したやうなのが「天國婆さん」の姿であつた。
 しかし、お婆さんはよく働く。梨畠の一本一本をわが子の如く丹念に愛で育てる。畠に草一つ生して置かない。七十を越えてなほ老を知らぬものの如くである。どうしてこのやうなお婆さんが大島に生じたのであらう。
 大島へ療養に行つてゐる人々は、大てい島娘の世話を受ける。それは、一體に水の乏しい土地であつて、使用水は、萱屋根から落ちる雨水で用立てるが、飮用水は、村をはづれて五六丁の所へ、汲みに行かねばならない。
 かつて或年のこと、畫家の一青年が療養の目的で渡島した。この婆さんの近くに假寓した。そして、日夕の水汲みの仕事を、お婆さんの孫娘に依頼したのである。二人はおのづから親しい仲になつた。青年の衷に燃えてゐる信仰は、娘の胸に炎の如く燃え移つた。が同時に、青年の病は娘の身に感染して行つた。
 青年の病は、俄に進行した。醫師も無く、看病者も得られぬところに、重態の病人一人止どまつてゐることは出來ない。遂に病畫家は、娘に別れ、島を離れたのである。
 娘の病も俄に進行した。しかし娘の胸には、信仰の實が純熟してゐた。死期の迫つた娘は、お婆さんに懇願した。「どうぞ悲しんで呉れるな、婆や、おれたちは天國でまた行き合ふことが出來るぜ、ただ、婆や、イエス樣を信じてくれろよ。なあ。」
 娘の死後、お婆さんが、どのやうな悲嘆に暮れたかは、推察にあまりある。然し、お婆さんは、遂に天國婆さんとして更生した。
 鴨居に懸けてある娘の像は、彼の青年畫家が、描いたものである。

 親鸞の書いた文字と、日蓮の書いた文字を、比較してみると、親鸞の文字は、やゝ嶮しく迫つたところがある。日蓮の文字は圓滿にして奧床かしさを覺える。人物も多分そのやうな相違があつたかと考へられる。自力宗の尖端を行つたと思はれる人と、他力宗の尖端を説いたと思はれる人と。この矛盾をどう裁いたらよいであらう。

 「芭蕉の破れやすきを愛す。」と芭蕉庵主はしばしば口にしてをるが、「破れやすき」の先に、「ゆたかなる瑞葉」の意が省略されてある。芭蕉一代の作句數は、決して多いとは云へぬが、その背後に、作者の深い生活が藏されてある。一句の裏に、毫光の如きものを感ぜしむる所以である。四十にして老を感じつつ、歩一歩深入りして行つた、詩生活は尊い。

 文章詩歌は、省筆を旨とする、省筆に省筆を加へて、最後に到達したものが、俳句であるといふ。形の上からいへば、まさしく、その通りである。それゆゑに、また俳句は、最も俗化し易い。苦錬をともなはぬ省筆が何の役目をなさう。

 赤彦先生が、百穗畫伯に對する交遊は、「敬」「信」「親」 の三字を冠して、なほあまりあつたと思ふ。大正の御代も末に近づいた頃は、先生の同朋が、遠地に散じ住み、アララギの上に多少の暗雲が漂うてゐるやうな時であつたから、兩人の交遊はいよいよ親密の度を深めたものの如く、常住多忙の畫伯が、頻々アララギ發行所を訪ねられたのも、その當時であつた。
 赤彦先生は、心の底から、有難き存在、國寶的存在として、百穗畫伯を遇してゐた。たまたま外出されて、微醉を帶びて歸られた時など、「百穗は來なかつたか。何だか來さうな氣がする、困つたな」と恥かしさうな笑ひを見せて、不斷着に着替へてゐる時の先生の赭顏は、これはまた有難き存在であつた。この態たらくを、畫伯に見られて叱つて貰ひ度いといふやうな、親しみ深い容子をして居られた。
 その赤彦先生が、百穗畫伯に對つて、苦言を呈したことが一度ある。帝展が終つたその翌月頃であつたらう。美術雜誌に、畫伯の帝展畫評が出た。それを一覽した先生は、「どうもまづいことをしたな。平幅さんが、かういふ物言ひをしてはいけない。平福さんだからな。」と憂鬱な容子をしてをられた。
 その一兩日後、畫伯がアララギ發行所に、先生を訪れて來られた。簡單な挨拶があつて、兩人座を占めたが、暫く無言である。赤彦先生が、靜に口を開いた。「平福さん。あの文章を拜見しました。少し唾が飛び過ぎたと思ひます。」畫伯は、默してうつむいたまゝである。赤面してをられる。「森田恆友さんの畫論は穩でいゝです。」赤彦先生はまた一言。畫伯の赤面が重くうなだれる。思ふに畫伯はその日、赤彦の苦言を豫知して來られたかに察しられる。赤彦の苦言も偉いが、百穗の赤面もまた尊いと、思はざるを得なかつた。
 赤彦先生が、百穗畫伯に對つて苦言を寄せたのは、兩者の人格交遊から考へて、恐らくこれ一度限りではなかつたかと推察される。やゝ時古りた話ではあるが、こゝに取り出でて、感を新にしたわけである。                        (信濃毎日新聞 昭和九年自八月至九月)
 
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