飽語    土田耕平

 
   諏訪中學へ入つた年のことである。私は、宗教や文藝に對する慾望が一時にめざめて、いろいろの書物が欲しくてならない。しかし中學へ入ることが、かつがつの家計の中に育つてゐたこととて、一册の書物を手にすることさへ容易ではなかつた。  町のはづれに、木賃宿のやうな汚ない古本屋がある。私は、時々學校がへりに其處へ立ちよつては、何か目ぼしいものはないかと、小鳥が餌をあさるやうにして、多くの講談繪本などの、積み重ねてある中をかきわけて見た。稀に、これはと思ふものがあつても、價十錢を超過したものは、斷念しなくてはならない。何の餌も得ることなくして、手ぶらで歸るのが大方であつたが、店の主は好人物であつて、貧しい少年の私を、愛想よくあしらつて、一度も嫌な顏を見せたことがなかつた。
 さうして半年も經た頃、私は計らずも、この古本屋で砂金のやうな拾ひものをしたのである。偶然手にした袖珍本が、富山房名著文庫の「芭蕉翁繪詞傳附發句集」價は三錢五厘であるのを、三錢にまけるといふ。私は、初めて想思の人に逢つて、顏の赤らむやうな心持で、その珠玉の如き一書を懷にした。  芭蕉の傳は、既に凡そ知るところがあつて、その人となりに、ひそかな憧れを覺えてゐたのであつたが、作品に自ら眼をあてるのは、これが最初である。
   蛸壷やはかなき夢を夏の月
   行春や鳥啼き魚の目は泪
 かういふ句が、先づ眼にとまつた。芭蕉の句集は、擬作まじり初期の變體があり、玉石混淆である中で、かういふ名句がゆくりなく、開頁の第一線にあつて、直ちに私の視野を射したのは、恐らく天の惠みといつてもよいであらう。讀書慾にかつゑかつゑてゐた少年の生命にとつては。
 まだ十五歳の私に、芭蕉の句の味が充分に納得できるものでないことは勿論である。けれど、詩歌の鑑賞は要するに、即座の直觀に歸するところが多いものとすれば、芭蕉のかういふ主觀的の重味ある句に接して、をののくやうな歡びを覺えた、その時の若い鑑賞も、大體に於て誤りはなかつたのである。なぜなら、西行も定家も、貫之も何ら關心するを得なかつた時、芭蕉に始めて共鳴をおぼえたのであるから。
 私は芭蕉の句のうちに、宗教と文藝との兩面を合せ感じたのである。その句をよむことによつて、句作慾をそそられることはなかつた。自分の生活の將來に遠く、何か約束される如きものを汲みとつて、いはば聖典を禮拜するやうな氣持で、芭蕉の句に對した。今にして思ふと夢のやうでもある。
  淵明の詩に一去三十年とある。私は最近稍親しく芭蕉の句を誦しながら、當時まだ、身も心も 健やかに、希望に滿ち滿ちてゐた少年の自分を、振り返つて見ると、孤燈に對して映る影の如く、自ら手をふれ得る身近さにありながら、現實の私は又再び歸り得ぬ遠い道に、病み且老いんとしてゐるのである。
 今なつかしく思ひ起す、かの富山房本はいづこか、旅先で失つてしまつた。古書店で求めれば、なほ求め得るものであらうが、今はそれほどの書物愛もなくなり、何かにつけ、感激の淡くなつた自分を、思はずに居られぬ。しかし、芭蕉の句は、誦してみるとやはり貴い。それは、この世だけの興味で判じがたい、奧深く苦味のまじつた性質のものである。文藝に飽きが來ても、芭蕉の句に飽くことは出來ないであらう。
    ひいと啼く尻聲悲し夜の鹿
    秋ふかき隣は何をする人ぞ                (信濃毎日新聞 昭和十五年四月)


戻る 
inserted by FC2 system