ふるさと    土田耕平

 
 
 今月十月二十五日諏訪高木(たかぎ)の先師の墓に詣でた歸途山手の舊道づたひに、大和(おわ)の地籍へ足を運んで見た。大和は私の生地である。
 二つの部落を隔つて三四町、家並の盡きたところは、片方にすぐ山の木立を控へ、片方に淺い谷がゆるやかに湖面へ落ちてゐる。その間、一すぢ道が山寄りに灣曲して、寂しく落ちついた感じのするところだ。往時私は幾度となく、この道を往返したものであるが、今何年ぶりかで過ぎて見れば、足の踏みどなきまで雜草が生ひはびこり、岩石があらはれ、なかなかに荒廢れた風情である。上下諏訪町の繁榮とともに、湖沿ひの新道は自動車の往返ひまなき有樣であるが、稻田幾枚を隔つこの舊道は却つて落ちさびれてゆく跡が見られた。暖い日和の午後にもかかはらず、人ひとり逢ふことなく、滿面枯れなびいた草々の中に、わづかに蝉の聲を聞くのみである。段々(きだきだ)の小田の面は正に豐熟しきつてゐるが、未だ收穫(とりいれ)の人は見えない。拙き案山子の君が、そこにここに昔ながらの體をさらしてゐるのも時に哀れを催す種であつた。
 大和は、山と湖の間に藁屋ぶきの群居してゐる姿は、高木と相似てゐるが、地藉がやや低いため湖面を見ることが少なく、山に觸接した感じが勝つてゐる。かつは、村が年古く貧しきゆゑに、高木部落に比べて、しんみりと寂しい影がある。私はその家並のうちへ足を踏み入れながら、これがわが搖籃の地であることを思つて見た。
 家建ちの一つ一つ、つぶさに記憶裡のものならぬはない。しかも、幼童の私が手をひろげて抱きつきたいほどの親しみをもつて、日々に駈け寄つたその家のすがたが、現在私の目に、さながら墓墳の如き寂しさを示してゐるではないか。二十年の歳月が、私自身を變へてしまつたのは事實である。時にその家その垣が方々くづれ、周圍の木立が徒に繁茂したのも著しい。かの翁媼たち、今果していく人存命してゐるであらう。
 私は往昔の誰彼に面合せることを、ひそかに期待する心地もまじつて、おもむろに歩みつ佇みつしてゐたが、さすがに農村のならはし、日中閑歩の人とてはない。たまさか行き違うた若者は、もとより遠い記憶の人ではなかつた。學校がへりの幼らが五六群れて來る。目のつぶらな、頬の色紅く緊つた顏だちは、故郷特有の或るものを思はせる。この子供らのうちには、恐らくわが竹馬の友を父に持つ子もあるであらう。など思ひながら、その一人々々に目をそそぐ中にきはだつて悧發げな女の子が一人ゐる。どこの子であらう?
 私の生家の跡は、村の南寄りに上諏訪町を望む地形を占めてゐる。家は十何年前に燒失して、掌大の桑畠に化してゐる中に五本の柿の木のみ火難を逃れて昔を語りがほである。時はすでに遠くすぎた。今さら悲嘆の涙に暮れる要もなかつた。私は一個の旅人として夢のあとを過ぎたのである。

 幼童の頃私は、屡々一人庭さきに出て、夕月の照る湖心に眺め入つたことを記憶してゐる。日暮どきになると、何故とはなく家のうちがもの寂しく――さうした心持の因りどころは判然せぬけれど――忍ぶやうにして、庭さきの木蔭へ行く。向うにまだ白々暮れのこつた湖面が迎へ顏に私の幼な心を捕へるのであつた。湖面は刻々に暮れて、やがて弦月の傾いた光が、波間に鋭どい線條をひく。
 當時の諏訪は、まだ汽車の便もなく、電燈の設けもなかつた。日沒とともに、四邊の山脈はひた暮れに暮れ入つて、若し月夜であれば、その月の光がほしいままに湖心の波を弄ぶ。現在湖畔の町村をつづる燈影の明るさ寧ろ煩はしさは、思ひ及ぶべくもない。その盆大の世界は、尚自然そのままの靜寂裡に息づいてゐたのである。
 わが大和の里から西南に眺める湖面が反映するのは、必ず弦月の夜であつた。山野を照り出だすには未だ弱いその光が、湖心一點に集つて、そこに限りない漣の列を描く。私はただ眺め入つた。幼童の心にも一脈天地の根に通ふ寂しさはある。私は早くそれを知つた。親の愛、友の睦みを知るに先立つて、早く自然の靈を知つた。自分の性格が弱く偏つてしまつた一因は、そこにあるのではないか。
 しかし、町の推移はめざましい。すべて人力の榮えをおもはせる現在わが郷里に生を受けた弟妹ら――わが愛すべき後生は、私如きの歩み來た愚昧の道を再び繰り返す恐れはないであらう。 (十二月六日)                   (アララギ 昭和二年一月號)

 
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