飯島鶴子を悼む    土田耕平


 飯島鶴子さんが亡くなられた。享年二十四歳。悲しみてあまりある事におもふ。始めて雜誌アララギに歌のあらはれたのは、大正十年十一月で、その原稿は相州平塚の轉地先から寄せられたものであつた。飯島さんはすでにその時胸の病を持つてをられたのである。歌は地味で平淡で温情がこもつてゐて、多く病者に見る圭角や皮肉は微塵も見えなかつた。その頃は作歌の數もなかなか多く、毎月缺かさず送稿して來たが、漸次歌の數を減じて一首のうちに深く味をこめようとする風が見えてきた。去年あたりから、三四ヶ月に一囘の發表を見るか見ないほどに減じてしまつた。しかしその少數の歌はもはや取捨する必要もなく、加筆すべき個所もなく、悉く珠玉の感があつた。
  しぐれの雨はるゝを見ればいちじるくむかう野づかさ色づきにけり
  おしなべて野山色づく秋の日をいでてみましくおもほゆるかも
  戸をあけてけさの寒さをいひたまふみははのこゑを床にききをり
  みぞれ降るひる靜かなれば床の上にまなこつぶりておもひゐたりし
  彼岸に入りて日ごととひくる念佛僧うたふそのうたあはれ探きを
  おもむろに野山もえゆく春の日をひとりこもりてこほしみにけり
  麥青くのびそろひたる田のむかう枯桑原はとほくけぶれり
  こもりゐのこころいぶせみこの夕べ草間の道にいでて來にけり
  春もはや暮れてゆくらむ道のへに榎の花の散りしくみれば
  歩みつゝ道の草生にみいでたるすみれはすでに青實むすべり
 今年になつてアララギへ發表されたものゝ一部をこゝに抄して見た。うかつに見ればそれとも知らず見過してしまふほど、平凡で何げない歌だ。よく目をとめて見る時そこに微かではあるが不滅の光を宿すものがある。作者は道のそぞろ歩きに、草かげに菫の實を見いでて樂しんでゐるが、その作歌も丁度その微細なる草の實の如く、粗笨なる心には映りがたい性質のものである。
 五年間の作歌生活を、飯島さんは實に純粹にきりつめて歩んで來られた。一度も横道にそれることなく、時の流行にまどふことなく、深く衷に求むる聲に從つて、念々歩みつづけた感がある。どの歌を見ても、一字一句みな作者の「獨り言」であつて、對他的の競ひや誇りは少しもない、これは長年の病生活が自ら然らしめた點もあらうけれど、やはり其人の天稟であつたと思ふ。今になつておもへば、飯島さんの歌は終始あまりに純粹にあまりに垢ぬけがしてゐすぎた。清らかなものは現世に命が短い。
 姉君つたへ氏の報ぜられるところによると、飯島さんは今から七年前女學校卒業直後に發病せられたのださうである。一時は大分工合よく、大正十二年海岸から上州のお宅へ戻られた頃は、體量も十三貫餘りとなり、院長からももはや大丈夫との言葉があつたといふ。昨年秋からまた少し具合惡く、この六月腸を害し、漸時衰弱せられた死の前一週間ほどは一滴の水藥すら喉にとほらず、ただ氷水のみで過してをられたさうである。さういふ時になつても苦痛らしい顏は一度も見せず、「私は幸福です、ほんたうに長い間御世話になつてすみません。こんな行屆いた看護をして頂くなんて私の様な幸福者はございません」と最後まで平靜なにこやかな容子であられたとのことである。姉君が時々枕もとへ行かれると、「姉さんはあちらへ行つて下さい」と病の感染を常に懸念せられ、病室には、海岸へ轉地した頃から附添ひの媼を常に置き「もう今度はいよいよ逝けさうだからね、婆や。すつかり髮も結び身體も拭き、床の周圍もよく掃除して、もう一度家の人々にお別れしたいから皆さんをよんで下さい。」と云つて夜半に家人を起しにやつたことが二度あつたといふ。實に傳へきくさへ涙ぐましい清淨な態度であられた。
 もう今日かも知れないと家内ひそまつてをる時、媼に忙しく呼ばれて姉君が行つて見ると枕もとのチリ紙に鉛筆で漸く判讀するほどの文字で、
   柿栗のみのりさかりを逝く身かな
   初秋や行雲とほし何千里
   秋を待つ待ちは待つたが露の玉
と記してあつた。此時にはもう云ふことばもよく聞きとれず、字體もいたく亂れてゐたのを、姉君がやうやく讀み得た樣子を見て「まだまだ頭にはたくさんありますけれどちつとも手がうごきませんから」と云つて例のごとくおだやかな笑を見せられた。臨終だけは安らかでありたいと常々云つてをられたが、誠に眠るやうに安穩であつたといふ。大正十五年十月十日午前十時。
 今年八月頃から本箱その他の整理など折にふれてする時、何やかや火中してしまふのを、姉君は悲しい心地で眺めてをられたさうである。死の二三日前に姉君に亡き後のことをこまごま云ひのこされた中に、歌友たる未見の私にも言葉及んだと聞く。
 飯島さん死去の報に接したのは十月二十五日諏訪地藏寺に滯在中であつた。その後事につけては飯島さんの淨い短い一生を思ふたびに涙なきを得ない。現身に一度も相會したことはなくとも、藝道の縁は實に微妙ふしぎである。今日は少し心をおちつけて、微々たる一文を綴りその芳靈に手向けることにした。その詠み殘された幾首の歌はいつか折を見て一集に編みたく願つてゐる。(十一月十四日)
   かみつけ野赤城おろしの吹くころをとぶらひやらむこともはやなし
   かくのみにありけるものを綿衣(わたごろも)われにたまひていひし君はや
   この世には相見る日さへなかりつる君がみたまをよびつつ泣かゆ
                                      (アララギ 大正十五年十二月號)
 
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