一夢想記    土田耕平

 
  論語その他古儒の書によつて、孔子の人となりが、稍明らかに感得されるとともに、孔子の風貌がそれともなく、腦裡に描き出されることがある。凡そ人間性のあらゆるものを渾一し寛容とした、常に何處かで見受けてゐる如くして、到底見受けがたい、ある特殊なる風貌が想起される。
 古聖の畫像の中で、自分の心に深く滲みこんでゐるものの一つに、レオナルド作「最後の晩餐」に見るクリストがある。新約の傳によつて、自分らはクリストの容姿を想像して見るのであるが、レオナルドの描き示したクリストは、最もよくそれに適つてゐると思はれる。言換へれば、自分らはこの名畫を見ることによつて初めて、クリストの顏は彼樣でもあつたらうと、自然に納得させてもらへるのであつて、この畫の力は博大である。あの畫面に見る如く、クリストをめぐつた十二弟子、就中、ペテロ、ヨハネ、ユダ等の持つ容貌の特異性は、クリストの衷にある複合體から縱横に放射されてゐる、伏線の現れとも考へられる。
 今自分の想像裡にある孔子の顏は、レオナルドのクリストとは、勿論大いに異つたものであるが、自分の想像を裏付け、且つ高揚してくれるものの如く思ふ。クリストに比べて言うて見るなら、孔子の顏はより現實性道徳性を加味して考ふべきであらうが、然し孔子は實に超現實でもあり、超道徳でもある。そして、クリストにない「老」がここにはなくてはならぬ。
 それ故に、レオナルドのクリストが著しく現實的であるに對して、これは寧ろ夢幻的に行くべき性質のものかも知れぬ。孔子の如き大人格の風貌は、さまざまに臆測することは出來ても、實際に一個の人物畫として描き出すことは、藝術家にとつて至難な仕事であらうと思ふ。
 「最後の晩餐」に於て、クリストの周圍に弟子が配置されてある如く、孔子の傍に幾人かの門葉を侍坐せしめた畫圖を、考へて見るには、論語は絶好の書である。クリストの聖書、それに勝るとも劣ることなき孔子の論語こそは、貴い書と云はねはならぬ。
  ○柴也愚、參也魯、師也辟、由也。子曰囘也其庶乎、空。賜不受命而貨殖焉、億則中。(先進第十一)
 此の一節の如きを端緒として、論語十卷に壓縮されてゐる、孔子及び諸門葉の風格をよく吟味し得たとして、それを如何なる筆力によつて描き分けるであらうか。顏囘子貢、子路この三者は逸物である。愚なる子羔、魯なる會參も困難である。
 孔子の畫像には、既に秀れたものが出てゐるのか否か、畫界に暗い自分は知る處がない故に、彼樣な臆測夢想を逞くして見るのであるが、今ゆくりなく想ひ浮ぶのは、雪舟の「慧可斷臂の圖」である。この力量をもつてしたら、孔子の風貌を描き出すことも、あながち不可能事でないかと思はれる。レオナルドの畫は、おぼつかない寫眞版によつたのであるが、これは正眞の作であつたから、十餘年を經た今なは、鮮やかに念頭にある。孔子の風貌は、レオナルド級の東洋畫人によつて、想像され創作されるを俟つの外ないと思ふ。        (信濃毎日新聞 昭和十五年二月)

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