机上二書    土田耕平

 
 私は常に不眠症に苦しみ、身體も虚弱であるため、讀書から離れた暮らし方をしたいと思つてゐるが、凡俗な私として、全く書物から離れた仙人のやうな生活は、とても叶はぬことである。
たまたま肩の凝らぬ新聞や、雜誌を拾ひ讀みする外に、最も秀れた古典で自分に親しみ得るものを二三選んで、室の飾りにして置き、ひもじい時の慰安にしたいと思つた。それで今まで、前半生のうちに讀んだいくらかの書物の中から、あれこれと取出してみて、最後に殘つたものは、論語と古事記である。
 これは勿論久しい前から、自分にとつて最もよき書物の中に、加へられてゐたものであるが、愈々數を減らしてみて、最後に殘つたもので、これなら、何時讀んでも、幾度讀み返しても厭きが來ない。論語と古事記といへば、恐らく日本人に最も多く味讀された書物であるから、自分の好みも世間一般向きであつて、往々人に注意されるやうな偏癖性は、自分は持つてゐないのであらうとも考へた。
 しかし、論語や古事記は多く讀まれてゐるだけに、その註釋や味はひ方が、人によつて千差萬別のやうである。ゲーテは沙翁の藝術を評して、小宇宙と言つたさうである、論語も古事記も、實に宇宙のやうな大きさを持ち、殆どあらゆるものが包含されてゐると思ふ。讀者はその好むところに從つて、その何處になりと遊泳することが出來る。實際に當ると論語よみの論語知らず、といふやうな結果になるかも知れないが、それでよいのであらう。
 私の場合は、色々の事情もあつて、世の中といふものを知ること少く、僅に文藝の一端になじんで來た程であるから、論語を讀むにしても、主として文學の立場から見て、非常に面白く感ずるのである。漢字の素養がなくては、とても細い味は解らぬに相違ないが、漢文學は文字を眼で見ることが、鑑賞上の一要素であるから、原音の微細な處まで入らなくても、大體の味は掴めることと思つて滿足してゐる。論語は實に名文であると、私は讀む度ごとに感じさせられる。
 莊子とか史記とかいふものがあつても、論語の簡淨と氣品は、恐らく天下一品であつて、誰が書いたものか未だ定説がないやうであるが、實に僅の文字を使用して、孔子といふ絶大人格を現はしたものだと思ふ。孔子の人柄に、小宇宙ともいふべき豐かさがあり、それを傳へた文字が、淨潔の極を盡してゐるのだから、何とも言ひがたい底味を覺えるのである。
 古事記は日本文であり、殊に最も純粹なるやまと言葉であるから、これは一字一音の端まで味はふことが出來る。やはり文學の立場から見て、日本の古典中類なき名文であると思つてゐる。古事記の思想を原始的といひ、行文を太い線であるといふ定評は、いふまでもないことであるが、原始的の中に、鋭い近代的のものが含まれ、太い線の中に、細く張りきつた線がある。事件にしても心理にしても、實に自然そのもののやうな行屆いた、描寫が行はれてゐることは驚くべきで、源氏物語など到底傍へ寄りつけるものではないと、私は思つてゐる。
 論語は教への書であるが、後の儒教に往々見受ける、通俗さや窮屈さは微塵もない。古事記は「教へ」の書ではない。人間の「本能」をありのまゝに具現した書であつて、神即ち人、人即ち鳥獸といつた世界であるが、卑賤な暴戻な感じは微塵もない。どんな哲學や思想を持つて、相對しても古事記の自然を低しとすることは出來まいと思ふ。
 「教へ」の文學と「本能」の文學と、部類分けにすれば對生的の位置にありながら、この二書を讀んだ感銘には、非常に相通じたものがあつて、卑近な例でいへば、鯛の味だ。人はこれを讀んで、何時までも飽くことなく、豐な落付いた氣持になれる。最も秀れたものは、さうなくてはならず、それが小宇宙なる所以である。
 古書に、仙人の生活を書いて「机上ただ老子と中庸を置くのみ」といふ言葉があるが、仙人でも多少の讀書は要としたところを見ると、非讀書の凡愚人が、机上ただ論語と古事記を置くのみにも、何ほどかの意味があるかも知れない。論語に就いて、又古事記に就て二三自説を擧げたい野心はあるが、今は差控へておく。まだ當分謙遜な心持で、時々の樂しみにして置かうと思ふ。大切なものは祕かにして置きたい氣持がするが、論語や古事記といへば、あまりに廣大すぎて、袖中の珍としおくわけにもいかぬやうである。  
                                      (信濃毎日新聞 昭和十四年十月)
 
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