古事記の事    土田耕平


 ゲーテは「古を慕ふ」と云つて、晩年益々ギリシャ藝術に傾倒したさうであるが、秀れた古代文學の持つ力は、大自然の持つやうな絶對性があつて、人は――少くも文學を愛好する人は、そこに落付きどころを得るのではあるまいか。それ故に自國の中によき古典を持つことは、實に大きな幸福と思ふのであるが、日本には古事記といふ偉いものがある。外國の産物は、その國の言葉によほど精通してをらぬ限り、文學としての味は分らう筈がなく、又翻譯はいくら巧みであつても、讀んではがゆい所のあるのは爭へない。
 この間ある人の説に、世界に於て最も傑れた古典は、ギリシャ敍事詩と舊約聖書と佛典と古事記だと、云つてゐたのを見て參考になつたが、なほその人の言葉に、佛典と聖書は信仰の産物であるから、純文學としてはギリシャ物と古事記だと云つてゐた。
 古事記は主として、神話傳説歴史もしくは、日本精神を知る材料として、見る人も多いやうであるが、私は文學としての立場から見て、最も驚くべきものだと常に思つてゐる。勿論傳説且つ歴史でもあるが、この點ではイリアットや、オデッセイの如きものも、單なる空想ではなく、歴史の事實に基いてゐるさうであるから同じことである。
 耳から心に融けてくる言葉の少ないこと(殊に名詞はその大半がさうである)は深く省るべきことであらう。漢字廢止論などは、不可能なことで同意出來ないが、同じ漢字を幾通りにも讀み、その發音がぎこちなくて、音樂的要素を缺いて、徒に雜駁な感じのすることは、日々の新聞を眼にする度にも感ずることである。耳で聽いて確に意味の解るのは、古典の中で古事記萬葉等の外にないといふ事は、日本國民として考ふべきことであらう。古事記は全部を假名書にしてよく解る。そして假名書にした方が、一語一音の末まで味ひ得てよいのである。古典復興とともに、古事記も色々の形で刊行されてゐるが、原文が假名のない時の所産であるから、漢字と振假名とが煩はしくて、本文の味にぢかに解れ難い憾みがあらう。信濃教育會では、論語讀本の如きも刊行されてゐるのであるから「假名古事記」とも云ふべきものを、造つて貰へたらと私は常に念つてゐる。精しい研究には、原文の漢字も必要に相違ないが、一般向きには宣長の古訓によつて、全部を假名書きにすれば、先づ大體信じてよい。萬葉の異訓多きに較べて、古訓古事記は殆ど動かぬ正訓と思はれる。古事記を讀みなれることは、近頃いはれる日本精神復興の意味ばかりでなく、もつと實際的な日本語問題に、よい影響を及ぼす道である。日本語といふ言葉が、第一實際の「やまとことば」ではない。「學校」などといふ言葉こそ聞きなれてゐるが、實はその意味を確かめるには、頭をひねらねばならぬ。「學」は誰にも分るとして「校」になると、小學生程度では、判然せぬ方が多いであらう。何故「學舍」「まなびや」ではいけないのか。かういふ例をあげれば、明治以後に造られた地名とか、官名とか悉くさうである。文學者教育者為政者ともに、考へてよいことではあるまいか。纏らぬことを書いてしまつたが、古事記に就いては色々言ひたいことが多いのである。   
 (未發表 推定昭和十五年二月)     
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