大正十一年の暮であつたか、明けて十二年の正月ごろであつたか、兎にかく、さむい夜だつたことと覺えてゐる。東京代々木郊外のアララギ發行所の一室で、自分は久保田先生と二人、火鉢を中にして、雜誌編輯の事務を執つてゐたが、ふと、話が人生の善惡問題といふやうなところに觸れて行つた。今考へると、まことに汗顏の至りであるが、當時青春にして、人一倍負嫌ひであつた私は、先生のことばの前に、默つて反省してみるだけの餘裕がなかつた。徒らに論難を繰りかへして、可なり久しい時間を費してしまつた。軈て先生は暫く沈默の後、
「人間といふものは、かうして存在してゐるといふことが、すでに大きな罪惡なのだ。」
と云つた。それで、長談議は
「人間の存在は、そのこと自身がすでに罪惡である。」
この言葉は、おそらく人生問題に最も深入りした人の感得し得た結語であらう。それゆゑに、また、既成宗教の普及とともに、ひろく俗化され、一種の臭味さへ帶ぶるに至つた。
「齒の浮くやうな宗教論」「法の塵」をもつとも厭うた先生は、さういふ言葉を口にすることが、平素殆んどなかつたその人が、不意に宗教問題の祕奧ともいふべきところを口にしたのであつたから、私は、敬畏といふよりは、むしろ不思議な
「人間の存在は、そのこと自身がすでに罪惡である。」
このことばを自ら、
久保田先生は、自分が現世に於て知り得た、最も貴き存在の一人ではあつたが、當時未だ五十歳に滿たなかつた先生の口から、この言葉が、意味だけにとどまらず素直なる自然の語氣によつて發し得られなかつたのは、寧ろ當然すぎるほどのことである。自分がお面を喰つた如き痛さをこの言葉から受けた所以であつたとおもふ。
先生はその後、三四年で歿せられた。刻々精進に暇なかりし先生の心境が、この間に一段と高いところへ達したであらうことは、いふまでもないが、前述の法語と身一つに成りきつたところ迄到達したとは考へられない。私は先生が老境に達せずして、生を竟へたことを、いかにも惜しく思ふ。もとより私的感情だけではなく、ひろくわれわれ日本民族のために。先生の精進と底力は、必ずや、高き年壽をまつて、自然法爾の心境、即ち、
「人間の存在は、そのこと自身がすでに罪惡である。」
かういふ言葉がいたきお面でなくて、やはらかき手ざはりとして、私どもの迷ひをなごめて下される時期が必ずや與へられるであらう事を信ずるからである。
しかしながら、「死生命あり」で、現世のことは大方不如意なのが常である。中道にして殪れた先生の生涯は、それながらに、われわれの前に永久たふとき存在として偲ばれるのである。
(信濃教育 昭和八年三月)