高天原    土田耕平


 大正十一年、島木赤彦先生が大和地方へ、萬葉集研究の旅をされて、歸京された時の談話に、高天原は大和地方ではあるまいか、と言はれた。一旦九州方面へ天降りしたが、やはり大和の方がよくて、後戻りしたのが、神武天皇の東征ではあるまいか、などとも言はれた。特別據りどころがあつて言はれた言葉ではなかつたが、大和の自然が地味でおほらかなのを喜ばれ、それが先生の古事記や萬葉に對する憧憬の心持と結ばれて、別に是といふことなしに、口にされた高天原説であつた。
 それから已に十數年の星霜が過ぎてしまひ、先生の高天原説もその時限りのもので、再び話に聞く機會を失つてしまつた譯であるが、時々思出して興味を覺えてゐる。私は考古學などは、若い時代には全く見向かうともせず、高天原がどこにあらうとも、文章としての古事記が秀れてゐれば、それでよかつた。萬葉集の歌にあらはれる、人名地名などに關しても、同じやうな考へをしてゐたものであつた。それが稍年をとると共に、多少とも考古學的興味が加はつてきて、同じく古事記を讀むにしても、神々の名や地名など、一字一音の問題にかかづらふやうな事が屡々ある。それ故、古事記の高天原が、實際としてどの方角にあつたのだらうか、といふ疑問を出してみることは、それだけでも相當大きな情味となる。
 古事記は、その上卷神代のくだりといヘども、單なる空想の産物ではなく、事實に即した傳説であることは、夙に云はれてゐる事であるが、高天原の所在地如何は、今日の進んだ考古學でも、到底解決の手蔓がつかぬものらしい。ホメロスの敍事詩が、土地の發掘によつて、その取材内容を確められた如き事は、古事記の高天原に於いては全く不可能である。速須佐之男命の御住地が、山陰地方であることが極めて明瞭であるのに反して、天照大御神の御住地は、全く神祕の扉に閉ぢられてゐる。然し、それだけにこの疑問は、古事記を愛讀する人にとつては、永久の謎として殘され、種々の臆測を逞しくさせられることであらう。
 古事記に於ける神代が、それ程遙遠の古でないことが信じられるとすれば、高天原は日本内地のうちに求めるのが、自然であり、それには大和平野をあてて考へた、前記赤彦先生談の如きは、文學的慾望からいへば、一番理想的でありさうに思はれる此臆測が、地理考古學等によつて、幾分なりと必然性を持ち得るとすれば、非常に面白いと思ふのであるが、今の私にとつて、その方面は全くの暗闇で、どうも出來ない殘念なことの一つである。
 ただ右の高天原説は、赤彦先生の偶然談にすぎぬとしても、赤彦先生の一斷片として興味があり、古事記及び大和地方に、多く關心をもつてゐる私には、一つの歡びの如くに頭の奧に藏されてゐる故、簡單に書きとめておくのである。        (信濃毎日新聞 昭和十四年十一月)
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