玉川村當時の赤彦先生    土田耕平

 
  自分が初めてアララギを見たのは、明治四十四年の確か十月號であつたと記憶する。當時は歌を專心作つて見ようといふ氣持もなかつたし、文藝の一として歌の價値をそれ程高く考へてゐなかつた。ただ漠然と文藝の精を求めつつ、すべてに飽きたらぬ心地がしてゐた自分は、アララギの莊重な古典的歌風に接して即座に無條件に頭が下つた。これこそほんものだといふ氣がした。わけても先生(當時柿の村人)の富士八湖を詠まれた一連「しづかにひとり遊はむと來りつる山のみづうみ暮れ入りにけり」「かく澄める山のみづうみに來てたまさかにひと日をあそびかへりゆくかな」等の歌に、云ひがたい宗教的な感動を覺えた。未だ世に認められなかつたアララギ當初の歌風は、恐らく文壇歌壇に類を絶した一境域を占めてゐたのである。
 アララギの歌を見て一ヶ月あまりも過ぎた頃、下諏訪高木のお宅(後、柿蔭山房)へ先生をお訪ねした。當時先生は、山浦の玉川村小學校長として玉川に獨居せられ、日曜だけ高木の御家族のもとへ歸られた。自分がお訪ねしたのはその日曜であつたと思ふ。別に改まつたお言葉もなく暫らく對座してゐるうち、アララギの歌について感想を述べるやうにとの仰せで、自分は心憶しつつ何か二言三言云ひ得たのみであつた。しかし先生は自分の訪問を喜んで下され、左千夫先生(當時御在世)のこと、故堀内卓氏のことなどさまざまお話があつた。當時先生三十六歳、自分は十七歳であつた。
 その翌年四月、先生のお招きで訓導五味保徳氏に連れていただき、自分は玉川小學校へ代用教員として奉職することになつた。教育者としての先生に暫時ながら接することを得たのは、大きな幸福であつたと思ふ。自分はまだ少年のことであり教育といふ仕事に專念してゐたわけでもなかつたから、當時教育者としての先生を云々する資格は少い。しかし、今靜かに追想するとき、先生は歌人として偉大であつた如くに或はそれ以上に、教育者として大きな天分を持つてをられたことが頷かれる。あの八峯高原の小學校に於ける先生を偲ぶとき、後年歌人として在京の先生に對するとは、また別な敬慕の念が自分の衷に蘇へるのを覺える。同校十餘名の職員が先生の膝下にどのやうに、樂しみ且勵んでその日々の職を盡したことであらうか。六百の兒童は先生を神の如く畏敬した。同地村會議員の頑強には歴代の校長皆困惑されたさうであるが、先生の前には唯々として羊の如く從順であつた。しかも先生は人々から敬遠されたのではなく、慈父の如く慕はれてなつかしまれてゐた。これは後年歌人としても同樣であるが、教育といふ仕事は直に人格が人格を打つだけに一層顯著なものがあつたやうに思ふ。殊に玉川時代は教育者として先生が最も力を致された時であつたと、先生の畏友守屋喜七先生は云はれてゐる。自分が玉川へ赴いたのは、教師としてではなく全く一生徒としてであつた。
 當時の先生はいく分痩せて居られ、大きな眼や尖つた鼻がきはだち、かつ總髯を貯へたまま剃刀など恐らく一度もあてなかつたらうと思はれる風貌をしてをられた。そして日當言語は粗野の田舍なまりをそのまま用ひられた。長靴の音がコツリコツリと廊下にひびく時、先生の御登校だとすぐに察しられた。職員室へ足を踏み入れるとき、「やあやあ」と云はれる。それが一同に對する挨拶である。校長席について別に一言を發するでもない。必要な用件がある場合に、底力のある聲で必要なことだけ云はれる。それで校務は圓滿に嚴肅に行はれたやうである。弱年末輩の自分にはもとより細かいことは分らなかつたけれど。自分の席は校長席と相對する反對側にあつたので、先生の姿がまともである。自分は少年らしい敬畏の念を以て、そのいかめしい顏貌を當に見守つてゐた。いくら見ても見飽きない「偉さ」がその顏面に感じられた。後年の先生をおもふとき、莞爾たる笑ひが多く伴うて感じられるが、當時の先生には笑ひが稀であつて一所に突きつめた嚴格さが保たれてゐた。先生が寛いで和氣藹々たる樣子を示されるのは、毎週二日放課後に行はれる論語輪講と萬葉講義の時であつた。論語はつとめて職員達の説を聽かうとせられたが、結局先生一人のお話になつて行つた。萬葉の方は云ふまでもない。自分は先生の口を發する一言一句を、肝に銘じ時に全身凝血するほどの心持で聽き入つた。當時先生は三十七歳であつたが、心の向け方は實に思想的でやや感傷的でさへあつた。お話の折ふし恍惚として夢のやうなことを半ば獨語らしく云はれることなどあつた。
 先生は讀書はあまりされなかつたやうに記憶する。職員一同で講讀會といふを組織し、新刊の哲學書文藝もの等が多く求められた。先生は藤村の小説は常に注意せられ、「食後」の出た時も、やはりいいなと云はれた。しかし西洋のものには殆ど目をつけられなかつた。ハウプトマンの「沈鐘」新譯が誰かの机の上にあつたのを、先生は一寸頁を繰つて一二行も讀まれたかと思ふと、「こりゃ何のことだい」とポンとはじいてしまつた。そして傍にゐた自分を顧みて微笑された。そんなことが今夢のやうに思ひ浮ぶ。先生は死なれるまで西洋の小説は殆ど讀まれなかつたであらう。藤村の作も外遊後のものは寧ろ輕現せられ、晩年は森鴎外の作を專ら推稱せられた。西洋のものといへば繪畫だけは特別注意を向けられ、玉川當時はゴオガンの畫を尤も愛せられ、「若き母」に對しては極度の讃辭を寄せられた。後二年漸くレンブラント、レオナルド等に好みが移つて行かれたやうである。先生が一生を通じて當住親炙せられたものは唯一萬葉集であらう。芭蕉を眞に尊敬されるやうになつたのは、四十代なかばに達してからであると記憶する。晩年の先生は初學者に對して、萬葉と子規を讀め(○○)と繰返し云はれたが、玉川當時は何を讀めといふ事をあまり云はれなかつた。子規のものに就ては、自分は當時一言もお話を承らなかつた。先生の歩まれた道は、確たる不動の一面があると共に、「變化」と「新」に對する希求が人一倍多かつたやうに思ふ。時にその態度が意識的に目立つこともあつた。この間先生からいただいた數年の書簡を整理して見て、その文字のいかにも變化著しいのに自分は驚いた。アララギ同人のうちで、特にきはだつて感じられたことであつた。

 日々先生の膝下にゐるうち、自分は少しづつ作歌するやうになつた。決して熱心といふほどではなく寧ろ氣まぐれの作歌であつたが、その歌を先生は一々叮嚀に見て下され、また讃め勵ましても下された。他の佳作に對した場合、先生は我を虚しくして驚異の眼を瞠られるのが常であつた。さういふ作に勿論いい所はあるに相違ないが、快く後學の長所を認め且つ喜ばれた先生の風格を高く仰がずには居られない。當時のアララギは同人の歌の外わづかに「信濃の歌」といふ一欄があつて先生が選をせられた。自分の歌もそのうちへ加へていただくことになつた。小尾石馬氏、兩角丑助氏、原田八十戸氏等當時「信濃の歌」で異彩を放つてをられ、自分等は毎時啓發されたのであるが程なく作歌を中止してしまはれた。
 先生がある時、君は夜何時頃休むかとのお尋ねに、十時ごろとお答へすると、それは早い俺は十二時前に寢たことはないと云はれた。先生はさうして夜の長い時間を、一室に煙草をくゆらし茶をのみ一人ぽつねんとして、一二首の歌を念々惜しむごとくして案じてをられるのであつた。先生が比較的多作せられたのは「切火」からで、それ以前の先生は一首の作もかりそめにせぬといふ風であつた。暫らく歌を見せぬ人があると歌以上の生活をしてゐるのではないかと恐ろしくなる、などと云はれたのも當時先生の心境を物語つてゐると思ふ。「馬鈴薯の花」の餘韻に富んだ歌風はさうしたところから發してゐるのである。なほ當時の先生は女性といふものを非常に高く見てをられ、歌もほんとに澄入つた境地は、女だけのものかもしれぬ、など云はれた。そしてまた、人間一個の力を殆ど絶對的に考へられ病氣などは心の持ちやうで悉く治し得るし、人各自の道も努力一つでどのやうな高處へも達し得ると考へてをられたやうである。人間は變るから面白い、今日はかうしてゐても明日はどんな處へ到達するか分らんでな、などと云はれた。そして御自分の前途に就ても計り知られぬ變化と向上を期してをられるやうにお見受けした。後年中村憲吉氏と互選歌集を編まれたとき、自ら二十年の御作歌の跡を省られて、人間一生の歩みは實に僅かなものだなと、自分に仰せになつたことがあつた。また、人間は各自持つて生れた天分だけのものである、とも仰せられた。その時自分は、玉川時代の先生と思ひ比べて、漸く白髯の目立つお顏を拜し、云ひがたい感があつた。しかし、當時に及んで先生の歌が地味に落着き、眞に力強くなられたことは著しい。この五月京都で追悼會があつた時、先生の師範學校時代の同窓春日政治氏が、追懷談をして下されたが、先年久保田君に二十年ぶりで逢つたところ、その人格の變化し向上されてゐるのに一驚した、このやうに變化された人も稀有である、との意を承り自分は彼此思ひあはせて感に耐へなかつた。

 先生の態度容貌は人も知る如く、知情意の三つ兼ね備はり、全體として強く大きく均整を保つてをられた。特に詩歌人には稀なる意力の強さが眉宇の間に動いてゐた。教育者としては申すまでもなく、政治家として軍人としてもどの道にせよ、第一流に立ち得べき人と思はれた。それが一藝術殊に短歌の如きささやかな門に生涯を寄せられたのは、やや不可思議な因縁とも拜される。玉川時代少年の自分にはわけてその感があり、先生が日夜孜々として作歌に心寄せてをられる有樣を、時に異樣な心地で眺めた。
 先生の容姿で唯一つ淋しいものに思はれたのは、襟の肉づきがやや乏しく蒼白に見えることであつた。今年二月上旬先生の御病氣を東京に訪はれた中村憲吉氏が御歸阪の折、自分へのお話に、先生の襟あしが老人のやうにゲツソリ落ちてしまつたと云はれた。自分は一縷の望みを取失うた如き心地であつた。今遙かに玉川時代の先生を思ひ浮べるとき、少し俯向き加減に長廊下を歩んでゆかれる先生の後姿が見えてくる。それは現身に淋しい淨い何ものかを思はせる。複雜な性格を持ち複雜な境遇を通られた人であるが、結局は孤獨と靜寂の底に深く息づかずには居られなかつたのが、先生の生涯ではあるまいか。
 玉川で先生に接したのは僅々二ヶ月に過ぎなかつたが、そのをりふしの感銘は若い自分の胸裡に深く刻まれた。その年六月先生は諏訪郡視學に轉任して玉川村を去られたのである。これが教育者の生活の最後だといふ決心が、その時すでに先生の衷にあつたのであらう。一校の職員部下を集めて告別の辭を述べられたとき、先生の態度は異常に緊張し、言々聽く者の肺腑を突かずには止まなかつた。どうせ人間一生である、全力を盡して見ようではないかと云はれ、僕も今後何年生きるか知らぬ、けれどやれるだけのことはやつて見たい、とも云はれた。その時先生の大きな眼に涙が光つて見えた。
 翌年アララギ叢書第一編として「馬鈴薯の花」が刊行され、翌々年の四月、先生は御家族を殘して單身出京せられた。そして歌の道に一圖に精進して行かれたのである。
  附記。出京後の先生、殊に大正十年後の先生に就て、自分の申すべきことは尤も多いのであるが、それは又機會があらうと思ふ。この追悼號には遠く記憶を遡つて、少年時自分の目に映じた一端を傳へようと試みた。定めし盲者模象のうらみが多いであらうことを、亡き先生及び讀者諸賢におゆるし願ふ次第である。
                                   (アララギ 大正十五年十月 島木赤彦追悼號)

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