遲筆抄    土田耕平

        淺谷

 私はこの三月上旬から、明石市郊外の高臺に住んでゐる。明石といへば、大ていの人は海の景趣を聯想するであらうが、今の明石は、窮屈に埋めたてられた海邊よりは、山手の丘の方に、明るいのびやかな、山陽らしい自然を見るのである。それは、たゞ一目に眺めただけでは足りない。せめて二三時間も足にまかせてそこらを歩きまはつてみると、ひろびろとした畠原の間に、淺い谷がいく條となく走つてゐることに氣づくことであらう。この淺い谷々を、私は云ひがたく親しいものに思ふ。谷あひは多く稻田になつてゐて、その畦には萱が栽ゑられ、ところどころは堤の水が白く光り、傾斜地には雜木の類も少くない。思ひがけないところに、古畫に見るやうな自然の一角を見出して、涙のこぼれる程うれしいことがある。
 私は生來、自然美に對しては、かたよつた好みがなく、それが自然でさへあればいついかなる場合でも、すぐに同化し滿足してしまふ方であるが、さういふうちにもわけて谷を愛好する。深い山の谷は、自分を常に宗教的思索にさそふものであつて、これはたとへようもないけれど、高臺もしくは平野の間の、わづかばかりの窪地が、また何ともいへず心をひくものである。
 今私の住居は、高臺の上の、風あたりやゝ激しすぎるほどのところで、定住地としては、視野が廣きに失すると思うてゐるのであるが、家の南側が、淺いゆるやかな谷になつて、底に水田を連ね、竹藪などもあつて、これは日夕眺め眺めして飽きない心地がする。明石の街へ下りるには、必ずこの谷づたひに小徑をたどるのも、うれしいことである。
 谷は、それがどんな小さな平凡なものであつても、必ず蔭を生む。朝の()、東の方から延びてる蔭が、日のたけるに從つて、短く濃くなつてゆくのも注意されるが、やがて夕蔭が反對に西の方から落ちてきて、漸く延びひろがり、谷そこを掩ひ、向ひの傾斜に這ひのぼつてゆくのを見てゐると、しづかにうら哀しい心地がする。朝の蔭は、刻々にその形を滅して行くのであるが、さして寂しいとは感じない。夕の蔭はそれには反したものがある。
 日光月光等による蔭は、あざやかに人の目にふれるが、曇り日の蔭、雨の日の蔭などは、久しく眺めてゐて、徐々に心の底に映つてくるものがあり、これは谷それ自身の蔭とも云ふべきであらう。私が谷を愛するは、主としてこの谷によつて生じる蔭を愛するのである。谷は淺くても、そこに生じる蔭には無限に深い何物かを、自分は感じる。
 かつて私は少年の頃、自ら生くべき前途を誇大視して、はげしい夢想に生きた年月がつゞいた。これは多くの人の一度は踏むべき經路かも知れぬが、かへりみて心さびしく思ふ。それだけ今は、自分の平凡を悟り、平凡の生に即して生きる工夫に落ちてきたことは否まれない。些細な何氣ない自然に、多く心のとまることも、一面これに關聯して考へられようか。けれど、われらの生にも時あつて、深い蔭はさす。淺い谷あひにおのづから無限の蔭がやどるやうに、それは、天地實在の奧からさしてくる何物かであつて、ここに鈍根愚昧の我らもなほ存在の意義をおもふことがある。私は永き日のつれづれに、窓前の谷にむかつて、こんな考へに暫らく耽つてゐた。 (四月二十六日)


       
播州の夕日

 どこへ行つても夕日を見ない國はないが、夕日のうつくしい處と、さほどにない處とある。殊に日沒後の夕燒は、ところによつて趣を異にするやうである。
 この播州の夕日を必ずうつくしいものであらうと、私はかねがね、想像してゐた。それは專ら地理地勢にたよつたのではなく、沙彌教信の傳と中大兄皇子の歌一首をたよりに、その地の夕日を限りなくうつくしいものに、また慕はしいものに感じてゐたのである。
 中大兄皇子の歌といふものは萬葉第一卷にある『わたつみの豐旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ』である。この歌は、皇子がどこで詠まれたものであるか判然してゐないけれど、『香具山と耳梨山と會戰(あひ)しとき立ちて見にこし印南國原』といふ、皇子が播州印南野で詠まれた歌と並記してあるのは、やはり同じ場所で詠まれたによるのではあるまいか。なほまた、常時皇子の足跡を考へてみても、かうした夕日の歌をよまれたのは、播州の海濱であることが尤も自然であると考へられる。考證としては、未だ不完全であるが、私は漠然とさうして斷案のうちに、ひとり滿足を覺えてゐたのであつた。
 沙彌教信の傳は、わが國淨土教史の上で、永久に珠玉の如き光を放つものであらう。宗教の素養なき私にはその深旨に觸れるべくもないが、たゞ彼教信が、淨土戀しさに西へ西へと杖を運んで、つひに播州加古の海に落ち入る日を拜んで、そこに一生念佛の草庵を結んだ。身につける珠數袈裟もなく、佛像聖經の備へもなく、塵俗の姿のまゝに、念佛口誦のみ寸時も絶さず、海の落日に日々佛の生身を拜し、他力信仰に徹してその一生を送つたといふ口傳――或は假説にすぎないといふが、よし假説なりとも――は、末世のわれらをして、今なは低頭の思ひあらしめる。その國その海の夕日は、必ずや莊美の極みであらうと、私は久しく思慕を走らせてゐた。
 後須磨に移り住むやうになつてから、私は屡々明石人丸山に遊んで、いかにも夕景の莊大なるを見て、かねての想像が誤りでなかつたことを知つた。須磨の地は西を明石海峽にとぢられて、夕景の貧しいところであるが、電車で三十分明石まで來ると、播州平野と瀬戸内海がはるかに視野をひらく。空の雲の豐富なことも、直ちに心づくことであつて、「豐旗雲」といふ萬葉語を、私ははじめて實地に見るこゝちがした。夕燒の美觀は、地勢や空氣の外に、雲の豐富なことが大切な條件であらう。内海ではあるが、少しも狹い感じはなく、常に一平らにしづまりかへつて、靜かなおもひごとをつゞけるに障るものはない。古人が一簑葉一笠草枕日を重ねて、かうした自然美に接しては、おのづから淨土往生の信も定まり、こゝに定住の願ひを起したのも(ことわり)とおもはれた。
 今年私は偶然にも、播州の一隅に居を占めることを得て、年長く思ひを走らせてゐた自然に、日夕相對してゐる。春夏とすごして、秋も十月に入つたなら、あの莊大な夕景を屡々見得るであらうと、ひそかに待ちまうける心地である。(同日)


       
山錦のこと

 角力道に心得ある某氏に聞いた話である。
 今東京大角力で小結までになつた山錦は、郷里の和歌山中學の生徒であつた頃、學生角力界で早く勇名を馳せてゐたさうである。そして得手は今と同じく押し(・・)であつた。單調な押し一手であるから、やがて相手方に呑みこまれて、叩かれいなされ等して不成績な時代が暫らく續いた。さういふ場合大ていの力士は、從來の得手を棄てゝしまふのださうであるが、山錦はあくまで押し一手で通して行つた。同じ押し手であるが、鍛錬の功はえらいもので、もはや相手方はその虚に乘ずることができなくなつた、といふのである。
 角力道の話ではあるが、自分は大へん感心して聞いた。天が人に興へる「得意手」は大てい一つきりのものらしい。われわれはその一手に執して、行けるところまで行くの外はない。


       
門外漢

 門外漢といふ言葉がある。これを三人稱に用ゐる場合は、多く輕視の意味を持つが、一人稱の場合は、謙遜の意味と同時に自負の氣が多分にまじるやうである。
 門外漢は、ものを冷靜に大掴みにし得る利がある。當事者が長時間かゝつて案じ出したことを、たゞ一目で悟つてしまふ場合が少くない。その點が門外漢をして、或は無意識に自負の心持を抱かしめる所以であらう。
 さあれ門外漢は、結局門外漢であつて、自らその門内に足を運んで事に當つてゐるものには、つひに及ばない。一見して鋭利ではあるがその刄さきはこぼれ易いのである。ものゝ奧底に徹する持力と熱量がない。
 門外漢程度の鋭利さをもつて、制作し論評して、なほかつ多大の好評をえてゐる人が、今の世には多い。「流行」はさういふ所からも生れてゐる。


       
永久

 「永久」とは單に時間上の存續を意味するならば、極みて荒凉のことである。千年萬年の存續が、果して何を意味するであらう。藝術の性命は永しといふが、若し後代に永しとの意味ならば、それは他の仕事と相對上の長さに過ぎない。時をへてつひに滅びざる藝術があらうか。
 文學美術等に比して、音樂のみはその人その時限りのものであると云はれる。しかも我らは、よき音樂に接した時ほど、永久感を覺えることはない。なぜであらう。音樂は、我らが最も純粹な態度を以て、これに對し得る藝術なるが故だ。
 純粹なるものにはすべて永久感が宿る。それは藝術のみに限らぬ。藝は永しとの語は、これを過つとき、藝術の意味を卑しくするものである。我らは縁あつて藝術の末に携はるが故に、藝術といふ仕事のうちに、永生を見出さうと努めるのである。


       
俳句道

 自分は和歌道を歩んでゐる一人として、他の文學中、最も親しく同時に最も恐ろしく思ふのは俳句道である。
 和歌は、可なりきりつめた樣式の文學であるとおもふが、俳句の道は一段と狹いところへ入つてゐる。まづ俳句作者は季題の制約に終始せねばならぬ。この制約がおのづからして、彼らを純一の境に連れて行く。さらに十七文字の樣式は、三十一文字に對して一層簡約された姿である。彼らにあつては、一心一圖自然物の捕捉につとめるの外はない。相聞も哀傷も、これを胸中深く疊みこんでおいて。それだけに俳句の道は苦しい障壁に行き當る場合が多からう。今の俳壇には、その障壁に面して、定形の壷を破り、つひに季題の繩を解かうとしてゐる人々がある。自分はそれを眺めるとき、支那に對する口惜しさを覺える。


      
和歌の體

 和歌三十一文字の體は、これを俳句に比するとき、緊めしめてなは緊めきれぬゆとり(・・・)がある。鋼鐵の面をぴたりと合せたやうにいかぬところがある。そのゆとり――間隙から、和歌特有の氣象が釀し出される。
 同じく簡約の體を持しながら、和歌は俳句に比して、著しく抒情的であり主觀的である。(以上三月上旬)


      
「若き母の像」

 幼年時の夢のやうな思ひ出である。
 私は八九歳の頃、北信濃のU市(常時はまだ市にはならなかつた)に、父母と妹と四人さゝやかな借家佳ひをしてゐた。父は役所づとめの身で、時々當直の夜がめぐつてきて、留守になることがある。さういふ夜のこと、幼ない妹は夕飯がすむとすぐ寢てしまひ、私も眠たくなるので、母に夜具をのべて貰つて、さて寢ようとすると、
「まあ、もう少し起きておいで。」
と云つて、母は私をひきとめようとする。子供心にも、さういふ時の母の心持が妙に映つてきて、私は何となしうら哀しい氣持で、寢卷のまゝ長火鉢のそばに坐りなほした。
 内氣で女性的であつた少年の私は、母と合性であつた。父はどちらかといへば活溌な妹の方を愛したらしく、親子四人水入らずの家庭のうちで、時に邪心なき抗對を示しあつたことを、今かすかに思ひ出される。その後父も母もひきつゞいて病沒したので、私にとつて暖い家庭の思出は當時を限りとしてゐる。
 家はひそやかな露路の奧で、新建の家々の間にはなほ田畑が殘つてゐる。夜は蟲の聲も繁く聞かされた。私は二人で、淺宵の灯の下に坐つてゐて、何を語りあつたらう。たゞその時しめやかな感情、母のおももちは、今なほ鮮やかに心に思ひ浮べることができるけれど、話題の記憶乃至事件の記憶は何もない。唯一つ、それは筆にのぼすべくあまりにはかない、しかし自分の心に長く忘れがたい、一瑣事がある。
 父が當直の夜のこと、例の如く母と二人でしめやかに何か語りあつた後である。私は一錢銅貨一枚を手にして外へ出た。門燈のうす暗くともつた露路を一走りに大通りへ出ると、筋向ひに買ひつけの水菓子屋がある。私はその店頭に立つて大きな熟柿一つをもとめて歸つた。
 母は熟柿を庖丁で二つに割つて、半分を私の前におき、半分を自ら手にとつた。
「さあおあがりよ。」
と母に云はれたが、私はなぜか躊躇された。甘い食べものの類は、母自ら口にしたことはなく、私たち兄妹二人に分つのが、常のならひであつた。その夜常にない母の仕方を、私は安からず感じたのであらう。かたはらに眠つてゐる妹をかへりみて、母は、
「××子にはまた明日買つてやるよ。」
と云つた。そして母と私は、その片々の柿を手にとつて食べた。
「まあおいしかつた。」
と母は笑顏をもつて私を見た。母の笑顏はいつも溶けるやうなやさしさがあつたが、その夜その折の印象は、私にとつて特に忘れがたい。母はその夜自身柿が食べたくなつて、私に買はせたものであつたらう。それは母として恐らく前後に例のないことである。
 母の一生は悲哀につゞられた一生であつた。それゆゑ、私の思ひ出は、あの夜半個たらずの柿を自ら口にして「まあおいしかつた」と云つた母の笑まひに、今なほ涙もよふすを覺える。けれど私は、その感情の委曲を傳へるべき言葉をつひに持たない。私は時におもふことがある。自分がもし畫家であるなら、あの赤い冷たい果肉の斷面を添景として「若き母の像」を成すであらうと。(六月十日)                             (信濃教育 昭和二年六月七月號)

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