追憶斷片    土田耕平

 
 中村憲吉氏に初めてお逢ひしたのは、大正元年秋のことであるから、考へてみると二十二年に亙る、久しい舊知であり先生であり、恩人である。信州松本から歸京の途次、富士見高原で一日清遊せられたとき、お伴したのが初對面であつて、驛頭で一目見てこれは中村さんだといふ氣がした。野は一面に秋草が咲き亂れてゐた頃であつた。松蟲草に殊に心を惹かれたらしく「どうも冥想的な花だね」などと云つて佇立してをられたが、その時の中村さんの姿こそ「若き日の冥想」とも題すべき鑄像の如く思はれた。自分の持つてゐる小さな惱みが、その人の大きな惱みの中に融け入るやうな氣がした。油屋といふ宿屋で食事をとられたが、その頃すでに酒をたしなまれてゐた。醉ふといふことがなく、常人が茶を飮むに等しかつた。「何でも若いものでなくては駄目だよ。僕もまだ若いから大いに勉強する。尤も久保田君などは別だがね。」などと云はれた。夜行で發たれる豫定のところ、懷中をさぐると錢が足りない。久保田先生のところから、電報為替を送つてもらつたりして、匆々歸京された。
 翌年私も上京することになり、中村さんには頻々お目にかかる機會があつた。歌も見て頂くことも出來た。當時はアララギも初期であつたから、歌會などと云つても、赤彦、茂吉、千樫、憲吉、文明等諸先生位のもので、それに清水氏、藤山氏、藤澤氏、私等の後輩がたまたま連座させて頂いた。中村さんは會合には必ず遲れてくる。それも長時間待たされるのであるから、皆當惑し、齋藤先生などいらいらしてをられた。しかし一旦本人があらはれて、遲參の言譯などされる樣子が面白いので、つい快き笑ひとなつてしまふ。そして、話が重要のところへ來るとあの彫刻的な顏がぢつと据つてくる。なくてならぬ人が來たといふ氣がする。それが二十五六歳の中村さんであつた。アララギの幹部といつても、今考へるとまだ若い方々のみで、それぞれ特色を持ち轡並べて前行してゆくありさまは、私如きものにもそれがよく感じられた。その間に立つてゐる中村さんの位置とか態度とかいふものを書いたらよいと思ふのであるが、今の所そこ迄筆を運ぶ力を私は缺いてゐる。その當時、中村さんは「頭は先に行つていくらでも活かせるのだから君は體をもう少し丈夫にしておくことが大事だ。」と屡々云つて下された。二十歳の私には、その意味さへよく呑みこめず、大きな損失をしたことは今更悲しい感慨である。
 中村さんは大學で一度落第した。それは試驗時間を聞違へた為で、殘念さうに赤彦先生に語つてをられた。卒業後は間もなく備後へ歸住せられ、私も他所へ移つたのでお目にかかる機會はなくて數年過ぎた。只その間にも赤彦先生を通して申しようもない御恩誼を受けた。
 後再び私が上京した折のこと、中村さんより警告の手紙を頂いたことが一度ある。それは赤彦先生宛のもので、それを先生が藤澤氏と私とに示された。「若い者をあまり自由にさせておくのは為にならぬ。」といふ意味の手紙であつたが、一讀してありがたいといふ氣がして頭が下つた。眞實なる警告苦言は誰にしても有難いものに違ひないが、中村さんの場合には警告即滋雨といふ感じがした。手紙の端にまでその人の徳性が及んでゐたのであらうか。今考へてもあの時の氣持は不思議なやうである。
 後數年して、關西でお目にかかつた時には、可なり大きな變動が中村さんの上に感じられた。青年期はもはやとくに過ぎてをられ、深刻な感じが内へこもつて、一見平凡人となり、人に對しても何事に對しても、樂々物言ひ行動し得る人のやうに思はれた。私は樂な氣持で中村さんに近づき、いろいろお話を伺ふことが出來た。加納君とともにお訪ねしたことが屡々あつたが、「今書きものをしてゐるところだ、困つたね。」とか「晝寢をさまされてしまつたよ。」などと玄關口へ出て來られて、顏をしかめ乍ら言はれる。それが大へん自然で氣持よく感じられた。「まあそこを少し散歩でもするかね。」など言はれるので、つひ御一緒に出かける、二時間三時間は忽ち過ぎてしまうのであつた。その頃の記憶の一つとなつてゐるのは、寶塚方面の丘陵地を歩いたときのこと、それがどういふ工場であつたか忘れたが、大きな家屋の中で多數の車がゴトリゴトリ音立てて廻つてゐる。屋前には事務員らしい人が數人立つてゐた。「一寸見たいものだね」とか云はれて、中村さんが中へ入つて行かれる姿を事務員らは怪訝な顏をして見てゐた。中村さんは車の一つの前へ立つては根氣よく見入つてをられる。私は餘り興味も覺えなかつたので、くたびれてしまつてやつと屋外へ出たとき、「どうも面白いものだね、君。」と車のことを云はれる。詰らないことかもしれぬが、こんなことが私にとつて有難い記憶となつてゐる。近所の知人たちに逢つて、挨拶される時の身振などは親切で瓢逸で垢ぬけがしてゐて、それで何か變なところがあつて一寸名状しがたい人であつた。
 一見悠長すぎるやうな人でゐて、大切なことは決して見落さない。時をおくらさない。凡ての人に親しみながらその間におのづからけじめがある。各自の長所を認めて大きな融和の世界に生きようとする人として、心から信頼された。當時はアララギもずつと發展してゐて、京都大阪を中心として多くの會員が西ノ宮のお宅へ集つた。その席に私もたまたま連なることが出來た。中村さんは人の歌を仲々賞めない。そして入念な親切な批評をされる。その批評のよさは、初めての人にはさつそく理解しがたいやうな性質のものであつた。ある日歌評會のあと、若い人々を前にならべて、長廣舌をふるつたことがあつた。「君らは處女を女神のやうに崇拝してゐるが、女といふものは要するにけものだよ。けものに近いものだよ。」といふやうなことを、酒の利いたときのならひで、くどくどと話し出した。しかし話が話だけに、聞かされてゐる方では、一人一人困つたやうな、耳でも押へたいやうな樣子をして、もぢもぢしてゐた。愉快といへば愉快な思出の一つである。
 女をけだものなどと云はれるのが、やがて、女の情愛といふものをよく理解され同情されてゐる所以であつて、明惠上人のことなど實にしみじみと語られる人であつた。その邊の消息は中村さんの歌を熟讀すれば誰しも頷かれる。故堀内卓氏に就て「非常に頭のいい男だつた。いい意味に於て。」と云はれたことがあつた。また守屋喜七先生に就て「僕等アララギの仲間では久保田君が一番おほどかで落着いてゐるが、守屋さんと並ぶと久保田君が神經質に見えてくるのは妙だ。」などと云はれた。中村さんのものの見方といふものがこんな所にも伺へると思ふ。
 大正十五年一月末の事、須磨の私宅宛に一寸用事があるから來てくれ。」といふ簡單な端書を頂いた。お宅へ行つて見ると二階の間に一人あぐらをかいて、しょげかへつた樣子をしてをられる。「近頃君の健康はどうかね。」と問はれるので、「別に變りない。」と答へると、「實は久保田君が胃癌だつてね。」と云はれる。久保田先生より中村先生宛の手紙を示された。ぞくぞく胸に迫るやうな氣がして一息に讀んでしまつた。「困つたね。」と痛々しげに云はれる。「先生の主治醫は人格者と聞いてゐますが軍醫あがりの外科の方ですから云々。」と私はふと思ひついたことを云ふと、中村さんは一寸考へなほしたやうな風に見えた。先生の文面をくりかへして見ると、やはりこれはいけないといふ氣がする。どうしてよいか分らなくなつて、その日はお別れした。翌々日かに思ひがけなく須磨の私宅を訪ねて下された。久保田先生の病氣に就ては、「兎に角近いうちに上京して畫伯や齋藤君ら同人に逢つて見る。」と云はれた。私の室には正受老人の「末後の一句」が軸物にして懸けてあつたのを目にとめられて「いい字だな。」とひとり言のやうに云つて暫く眺めてをられた。それから電車で明石の城址へ行かれた。大きな古沼の面が暗く沈んで、枯葦が一面に立ち亂れてゐる。水鳥の群がかぎりなく異樣な聲をしてねぐらをもとめてゐる。深い沈默裡に佇立してゐた中村先生のこのときの姿は、かつて富士見野に於ける「冥想」に何か通ずるものを覺えた。心は遠く病める友の上に集中してをられたのである。
                             (アララギ 昭和九年十一月中村憲吉追悼號)
 
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