やまとことば    土田耕平

 
 秋の終りから冬の初めにかけて降る雨を、シグレ(時雨)と呼ぶことは、古く萬葉の頃から見受けるのであるが、此言葉の持つひびきは、直に中味の感じを傳へ得て、日本語のうちでも、まことに良い言葉の一つであると思ふ。かういふ良い言葉に富むことが、やがて國語の豐富を意味するわけであるから、大切に保存し使用して行かねばならない。
 同じく雨のたぐひに係る言葉のうち、サミダレ(五月雨)ユフダチ(夕立)等も、よく意味あひと音調とが一致してゐて、良い日本語であると、常に思つてゐる。ハルサメ(春雨)などといふ言葉も、漢字面で見れば熟語として、意味が先立つ感があるが、耳に傳はるひびきには、特別の情味がかもされて、ハルノアメと呼ぶ場合とは、また異なつた味ひが添ふのであつて、これは言葉の持つ音樂的要素、即ち神祕性といつてもよく、これあるが故に詩歌や物語りの上のみでなく、日常生活の會話を通じて、私どもの内的生活にまで及ぼしてくる力のあることを知つて置きたい。
 ヒサメ(氷雨)とかミゾレ(霙)とか、かういふ言葉があつても、古來から馴らしてゐるから、ふだんは何の氣なしにゐるが、もし新らしく作るといふことを考へたら、殆ど不可能なことになり、これらの言葉の缺除は、國語の貧困を意味し、ひいて日常生活の上にも、目に見えぬ損失を來すわけである。
 雨の序に風に就ての言葉を一二擧げてみると、ノワケ(野分)コガラシ(木枯)是等も非常によいひゞきを持つた言葉である。是等は奈良朝には未だ存在せず、平安朝に到つて創始された言葉かとおもふが、かういふのは所謂ヤマトコトバの自然の教育であつて、自身の血肉が肥えていくにも等しく、安らかな喜ばしい心地のするものである。以上名詞に屬する言葉を、思ひつくまま拾ひ出したに過ぎないが、動詞や形容詞その他に於ても、理は皆同じところにある。私どもが今日奈良朝の文物から、平安朝の文物例へば古事記から、源氏物語へ讀み移つてみると、いちじるしく言葉が富み榮えている道すぢが分る。そしてこれはヤマトコトバの榮えであるから、今でいへば語原の學問にもなり、言葉の發聲が直ちに、内心の感情を傳へてゐるわけであつて、私どもが平安朝の文物に、多くの關心を持つてゐるのは、かういふところに、深い根據を持つこと言ふまでもない。
 鎌倉時代のものになると、名詞の約半數が漢語に占められ、從つて他の品詞にも差及ぼしてゐるから、耳で聞くべき言葉が、眼で見なくては解りかねるやうな、矛盾が多くなり、言葉の純粹性が全く損はれてしまつた。人の體でいへば義齒や義足を用ゐてゐるやうなもので、讀んでみて、文の味はひといふものが平らかでない。ただ意味をつたへて、感情をつたへ得ぬ言葉ほど、はがゆいものはないが、事實として鎌倉以後の日本文ほど、血の循りの惡いものが他にあらうか。これは古事記や源氏物語を讀むたびに、必ず痛切にこたへることで、日本語はどうしても、古いヤマトコトバを基礎とし、發育させて行くことが、第一條件ではないかと私は常に考へてゐる。それには漢字は用ひる場合、なるべく日本讀みにして行くといふことが大切ではあるまいか。漢字も支那人の發音に從へば、語原に遡り得て、支那人にとつては血肉同樣、貴いものに違ひないが、漢字漢語を鵜呑みにさせられてしまつた、今の日本語ほど、亂りがましいものはなく、たまたまラヂオの時局ニュースなどに耳を傾けるたびに、今の標準語と關聯して、國語問題が暗く頭にかかつてくる。これは勿論私一人のことではあるまいと思ふ。シグレといふヤマトコトバの話が思はず脇道へそれてしまつたが、日頃の思ひつきの一端を述べたまゝで、これを筋道立てて言ふことは、私如きのよくすることでない。                              (信濃毎日新聞 昭和十四年十一月)
     
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