「一塊」     卷 末 記


 本集は、歌集「班雪」以後、逝去に至るまでの作から編んだのであるが、編むに當つて、未亡人、土屋文明氏、私と相談のうへこれを為した。その間の經過のことは、未亡人の次の消息に見えて居る。
 「昭和八年斑雪刊行後、終焉に至るまでの九年間アララギ、信濃毎日新聞、短歌研究等の諸雜誌に發表した歌を、月々手帳に寫し取り、それを氣分にまかせて、自選推敲して居りましたが、力及ばず、再考の標をつけたものが大半でありますので、兎に角、總數千五百餘首の中、明瞭に捨てる標の無いものばかり七百六十餘首を淨書したわけであります。」
 「生前も、歌集出版のお奬めを受けましたが、一集に纏める自信がなく、もう數年健康にめぐまれて、自信ある其後の作をも加へてから出版したいやう、申居りました次第でございます。」
 「逝去前、昨年の七月に病の昂じました折、鬪病中作つた今迄の歌は皆反故だから、病が快くなれば出直しだ、などと申して、その手帳を破ってしまひ、あゝさっぱりした、などと淋しげに申しました。手帳が部厚の為二つに裂けたのを、後に私が貼り合せて綴った樣な次第でございます。」
 「在世中ならば、この儘では未だ出版を肯んじなかったと存じますが、兎に角淨書させて頂きましたわけでございます。新作の歌も殆んど推敲を避けて居りましたので、只病中の慰みの程度でとどめて居りました樣でございます。」

 本書「一塊」(ひとくれ)といふ名は、はじめ如何にしようかと思ってゐたところ、計らずも著者の日記、昭和十四年十二月三十日の條に、次のやうにあった。
  晴風吹く。短歌研究へ五首。餘命幾年かあらば、歌集
  「一塊」と名づけんかなと思ふ。唯稱彌陀――名號一定
 それでそれに據ることにした。これも未亡人の案に私等二人が賛成したのであつた。
 出版については、古今書院橋本福松、橋本眞の二氏、題簽は岡麓先生、校正はきみ子未亡人と鹿兒島壽藏氏、裝幀は鹿兒島壽藏氏、以上の諸氏の心づくしに依って成った。

 君の晩年の生活は病弱、君のいはゆる「病生隱遁」であったけれども、積年の鍛錬かくのごときの作歌を為遂げてゐる。また晩年には殆ど推敲苦吟といふことが無かつたやうであるが、君の生の――永劫中一瞬、唯稱禰陀、いにしへぶり、名號一定――のふかき安心によって、かくのごときの作歌を為遂げてゐる。私等は先づこのことに想到らねばならない。
 なほ將來に於て、「土田耕平全集」の發行も實現せられることとおもふが、事變下の緊迫せる状態に於て、その實現の時期も豫想せられぬのであるから、君に接するには君の晩年の作であるこの「一塊」一卷に親しむことを以て最も適切なることとおもふのである。
      昭和十六年六月十一日
                                                齋藤茂吉記



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