土田耕平の歌碑

 
むかし見し高島校を今見れば
    木垂るさくらも年古りにけり   
   諏訪市高島小学校。耕平の母校。諏訪湖を見下ろす高台に。(写真提供:高島小学校)
 
諏訪市大和寿量院。生家に近い菩提寺。
耕平は家族とともにここに眠る。
  黄水洗開かむとするふくらみに
   あしたの露のしとどなるかな 
 
童謡「八ノ字山」  八ノ字山の 八ノ字ゴウロ 雪がこんこん ふつている…     諏訪市高島文学の道。諏訪ゆかりの人の文学碑が20基ほど点在する。  
 
茅野市泉野小学校。昭和7年より5年、学区内に居住し、小学校補修科を教える。     泉野小学校歌「八ヶ岳高き峯々 裾野原広き隈々 流れ来る水のたぎちは……」 
 
ただ一つ見えて悲しき朝船は
   野増の磯に寄らで過ぎゆく  
  伊豆大島波浮の海岸。大正4年から同10年まで大島に病を療養する。
 
伊豆大島波浮の港。展望台から港を見下ろす。    蛙鳴かぬ島にし住めばこの頃の
   そぼ降る雨夜ふるさとを思ふ 
 
さくら散る山裾道の夕ぐれを
   牛曳きて来る小少女あはれ  
  伊豆大島波浮。文学の散歩道。大島ゆかりの文学碑が30余基。 
 
伊豆大島弘法浜。仮寓からほど近く、耕平が好んで散策をしたという。   桜葉の散る日となればさわやかに
   海の向山見えわたるなり 
 
千曲川板橋長しふりさけて
   越後境の山見ゆるかな  
  飯山城址三の丸から。元は板橋であった橋を望む。
 
飯山市妙専寺。大正12年ここに病を癒やすため仮寓。のち県内を転々とする。    かにかくに人のなさけに我れ生けり
   手にとりて見る数珠の一房 
     
須磨寺や龍華の橋を越えくれば
    冬小鳥鳴く松の木の間に  (竜華の橋)
  真言宗須磨寺派大本山上野山福祥寺。大正14年より2年妙福寺、明石などに寄寓
須磨寺の案内図には、竜華の橋の袂に耕平の歌碑が示してあるので探したが見当たらない。たまたま通りかかった老師に伺うと、耕平と川田順の歌碑は木碑だったので長い年月の間に朽ちたので、再建しようとは思っているが、未だその期に至らないと残念そうに語っていた。
     
大和郡山市城址公園。昭和3年、この地の箕山に仮寓。のち帰郷して泉野に帰村。    むら立ちて咲く蓮の花そと濠の
    たかいし垣に朝日照りつつ 
 
青山をゆたに繞らしみんなみに
    立つ白雲や遠江のそら 
  飯田市飯田病院。耕平は三度入院。原農夫院長より治療を受けるも鼎に没す。
 
飯田市鼎。飯田近郊の黒河内家に仮寓中生涯を終える。 〔碑陰に歌を刻む→〕   下伊那はわれに三度の古里ぞ
    山に雪ふるを見つつかなしむ 。

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