沙禰教信    土田耕平



 私の住ひしてゐる元村(大島)から見ると、夕日の落ちるのは伊豆半島の上であるが、この頃の短日には、岬をはづれて海中に沒するやうになる。たまたま濱邊に立つて落日の莊嚴に接する時、私は沙禰教信の昔を憶ひ浮べるのをこよなき歡びとする。播州賀古の西野口は、こゝから遙かに地を隔てゝゐるけれども、海の入日を望み得ることに變りはない。私は教信の眞姿をまざまざと描き出すことが出來る。
 一代の學匠として萬人の上に立ち得る身でありながら、彼は人に雇はれて耕耘の業に從事した。海邊にささやかな庵を結んで草露の身を宿し、そこに妻を帶し子を設けた。一卷の聖經もなく一躯の本尊もない。しかも彼は常住坐臥念佛を怠ることがなかつた。遙かに西をさして沈みゆく夕日の莊嚴こそは彼にとつてまこと生身の佛であつた。
 法然も親鸞も未だ世に出でなかつた昔、すでにすでに教信の如き人が存してゐたことは何といふ奇跡であらう。彼の一生を思ふと云ひ知れぬ力と慰めを感ずる。愛慾の現世に即したまゝ深く靜かに佛さまを念じて生きたいと思ふ。妻や子をかゝへつゝ念佛する心は尊くも泪ぐましいものに違ひない。それは孤獨の私にも想像できる。
 限りなき海の日沒に對する時、自然の偉大さにひたと打向ふ時、やゝもすれば孤獨の寂しさは私の胸に喰ひ入つて來て人なつかしさに耐へぬことがある。そんな時に、教信の一生を思ふのは喜びである。愛慾の絆に煩はされることなく、かへつて其れによつて自分の信心を深めて行つたものと想像される。彼の行跡は永く凡夫の手本となつた。
                  1        (信濃教育 大正九年十二月號禿筆雜記)

     
※童話「加古の跡」は教信に材をとったものです。




    
無題


 法然上人の一枚起請文に「念佛を信ぜん人はたとひ一代の法をよくよく學すとも一文不知の愚どんの身になして尼入道の無智のともがらに同じて智者のふるまひをせずして只一かうに念佛すべし」とある。作歌の上にうつし考へていい言葉だとおもふ。芭蕉が、「俳譜は三尺の童子にさすべし」、と云はれたのも有難い。詩歌は單純な心にのみ芽生える。學問が積み生活が複雜になると共に歌ごころの減退してゆく人が多い。(アララギ 大正十二年二月號)
 
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