加古(かこ)(あと)            土田耕平

 昔、法然上人(ほうねんしょうにん)親鸞上人(しんらんしょうにん)などという高僧(こうそう)たちが、世にあらわれる前のことであります。
 比叡山(ひえいざん)教信(きょうしん)という(ぼう)さんがありました。その(ころ)は、坊さんと(もう)しましても、学問修業(しゅぎょう)が第一でありまして、(だれ)しも高い(くらい)()て、世に(ほま)れを残すことを、(のぞ)みとしていたものであります。
 教信も、そういう心がけで、始めのうちは日々の修業を()んでいたのでありますが、やや年たけた頃になって、ふと心づきました。(いたず)らに他よりもすぐれたものになろう、名を後の世に残したいと、そういう(きそ)い心で大切の年月を送ってしまった。しかし、自分の心の奥底(おくそこ)(ねが)いをつきつめてみれば、ただ(まこと)信仰(しんこう)を得て仏様に(すく)われたいという、この一つに外ならぬ。(われ)ながら(あやま)っていた。そう心づくとともに教信は、ただちに比叡山を逃れ出ました。その時は、すでに名高い学匠(がくしょう)として立てられていたのでありますが、それを破履(はり)(ごと)くすててしまったのであります。さて山を逃れ出たが、どこへ行くというあてもない教信は、何となき憧憬心(あこがれごころ)に、西へ西へと足をはこびました。やがて、播州(ばんしゅう)の加古というところへ着きました時、あたかも、海原(うなばら)のむこうに、あからひく夕日の御光(ごこう)生身(なまみ)の仏さまの如くに拝まれました。
 教信は、その海べりにささやかな(いおり)をむすびました。そして、土地の人々の耕作(こうさく)を助けたり、用達(ようたし)荷運びなどをして、その日暮らしの(まず)しい境涯(きょうがい)に入ったのであります。
 身に僧衣(そうい)もつけず、手に数珠(じゅず)をつまぐることもなく、庵のうちに木魚(もくぎょ)香炉(こうろ)のたぐいもありません。ただ身一つになりきって、世人なみの仕事をしつつ、耕作を(いとな)みつつ、いついかなる場合にも口に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)(とな)えつづけておりました。人々はあわれみさげすんで、阿弥陀丸とあだ名して、これをせい、あれをせいと、よき使いものとしました。こうして、一代の学匠は身を落としはてて、世を終わったのであります。

 しかし、人の真心(まごころ)というものは黄金の如く火に()けることもなく、水に(そこな)われることもなく、永遠に残るものでありましょう。捨て石の如くすぎた教信の一生はいつとなく、その真の光を放ってきました。
「自分の信心は、教信の信仰と全く同じである。」 と親鸞上人は(おう)せられました。教信が住まっていた庵の跡には、教信寺というお寺が建てられました。この人のお話はこれだけでありますが、今から七年ばかり前のことであります。私は教信寺にお(まい)りしたくおもい、六月の十四日という日に、汽車で加古駅まで行き、そこから半道あまりの道のりを歩いて、教信寺に行きつくことが出来ました。
 一面に麦の(じゅく)した頃で、田圃(たんぼ)にはあちこちお百姓(ひゃくしょう)の姿が見えました。
 お寺のお坊さんに(たの)んで、木像(もくぞう)でもあったら拝ませて(いただ)きたいと申しますと、大そう親切に、私がまだ知らなかった教信上人一代の行状(ぎょうじょう)を、こまごま話して下され、本堂のお木像の前へ連れて行って、お経をあげて下されました。私は、長い間心に(しの)んでいた(ひじり)(あと)を、正目(まさめ)に拝むことが出来(でき)たのでありました。
 ただふしんに思いましたことは、むかし教信の庵は海べりであったと伝え聞いていたのに、今見る寺の所在は、海までは、一里のへだたりがあります。そのことを坊さんに(たず)ねましたところ、当時こそ、このあたりまで海が(たた)えていたのですが、川砂のために、陸が()し出して、千年の間に海は、一里かなたに遠のいてしまったわけですと坊さんは申されました。
 千年といえはずいぶん長い月日ですが、これから後といえども日本の国のあらんかぎり、教信の信心は、人々の心のうちに珠玉(しゅぎょく)の如くに(たも)たれて行くことでありましょう。
 お寺のかえり道、汽車が明石(あかし)を過ぎて、一ノ谷(いちのたに)の海べりへ近づいた頃、日が暮れはてて、蒼黒(あおぐろ)(しお)が窓の下に、打ち寄せ打ち寄せしているのを見ました。


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