(かけはし)の句            土田耕平


 貞享(じょうきょう)五年のこと、俳人(はいじん)芭蕉(ばしょう)大和路(やまとじ)から須磨明石(すまあかし)行脚(あんぎゃ)()えて、美濃尾張(みのおわり)のほとりをさすろうていましたが、やがて時は葉月(はづき)に入り、夜ごとに()んだ月かげを(あお)ぐころになりました。
信州姥捨(しんしゅうおばすて)は古来月の名どころ、一度旅寝(たびね)してみたいとはかねがねの願いであったが、これより鹿島立(かしまだ)ちして木曽路(きそじ)をいそげば、かしこで名月を(むか)えることも出来(でき)ようぞ。」
 こう思いたつと、芭蕉はもはや一刻(いっこく)猶予(ゆうよ)しておられぬ気持ちになりました。その翌日(よくじつ)は門下の越人(えつじん)をともなって、北へ北へと恵那(えな)のふもとを過ぎ、木曽谷の深みへ(つえ)をすすめていたのであります。小野の(たき)、ねざめの床など呼ぶ勝地(しょうち)、さては桟の難所(なんしょ)薮原(やぶはら)奈良井(ならい)の宿をすぎて洗馬(せば)へ出ますと、筑摩野(ちくまの)の左手に高く飛騨(ひだ)の山脈がつらなっております。塩尻(しおじり)、松本をすぎて(さら)に山路にかかり、立峠(たちとうげ)(さる)番場(ばんば)などというところは、けわしくそそりたつ山腹(さんぷく)をかけて、うねりうねった嶮路(けんろ)つづきであります。
 芭蕉は一生を旅にすごした人でありますが、持病(じびょう)もちで(つね)(ちょう)をわずらっていたた
め、年よりも早く()いて、四十歳の(ころ)には(まゆ)の毛が白くなり、()せた前こごみの姿は、どう見ても老翁(ろうおう)の感じであったそうであります。しかも一旦(いったん)旅に出ると、ふしぎと精根(せいこん)がまして(つか)れるということを知らず、名どころときけば、(みち)の遠き近きをいわず(つえ)をはこぶという風でありました。そして夜はまた、とまりとまりの灯火(とうか)をたよりに句作(くさく)にふけるありさまは、ともに()れた門人たちのいつも目をみはっておどろくところでありました。
 しかし、こんどの旅は二年ごしの長い行脚のあげく、さらに山谷の嶮難(けんなん)にかかったことでありますから、越人は()のからだを気づかわずにはおられませんでした。はたして、芭蕉はしばしば歩きなやむようすで、ものにつまづき、また杖にすがって息づきすることがはたの目にも心ぐるしく、かつまた名古屋(なごや)から門人荷兮(かけい)が旅の助けにとつけそえてくれた若者が、さらに旅なれぬさまでかえってこちらの手足まといになりなどして、道中の難儀(なんぎ)はひととおりでありませんでした。
 しかもそういう場合にあって、芭蕉が句作に骨折(ほねおり)することは平常(へいぜい)に少しも変わりありません。越人はその句作に対して口添(くちぞ)えすることは何としてもできませんので、せめて昼のうちの道中なりと師のからだをいたわりたく思い、宿場々々で馬をすすめますけれど、芭蕉はそのつど「大丈夫だよ。」といって容易(ようい)(がえん)じようとしません。
 とある険岨(けんそ)のみちで、年ごろ六十あまりの道心(どうしん)と道づれになりました。()に大きな荷を負うて息をはずませつつ小刻(こきざ)みに歩きつづけている姿が見る目にいたわしく、芭蕉がしばしば心にとめるらしいようすを見てとって、越人はいいました。
「いかがでございましょう。馬をお召しになっては。してあの道心の荷物を一しょに(くら)にからげてつかわしましたなら。」
「では乗ることにしようかな。」
 と芭蕉はうち笑って、とうとう越人のすすめにしたがいました。が一時もたたぬうち、芭蕉はかき乗せられた鞍の上からふりかえっていいました。
「越人よ、もうよいからおろしてくれ。」
「どうしてでございますか。」
「わしは馬はよう乗りつけんためかどうも心ぐるしい。いつぞや吉野行脚(よしのあんぎゃ)途中(とちゅう)杖突(つえつき)坂で落馬(らくば)したことがあったが、あれはさしてさかしい道ではなし、事もなくすんだが、万一こんなところではと思うと、こわくなって来た。せっかく姥捨の月を心ざしながら中途(ちゅうと)で死んではつまらないからな。」
 越人は師を()き助けて馬からおろしました。徒歩(とほ)すがたにかえった芭蕉は、心やすげに(とも)のものをふりかえって、
「馬に心得(こころえ)のある人は(だれ)なり乗ってはどうかな。道心の御坊、あなたは――」 「いいえ、滅相(めっそう)な。」
 と道心はいかめしく首をふりました。
「越人、そなたは。」
「わたくしも御免(ごめん)こうむります。」
「おまえは。」
 と例の若者をさしまねきますと、しばらくためろうていましたが、芭蕉が重ねてのすすめに、
「どうも(おそ)れ入りますな。」
 とおぼつかない腰つきで鞍にかきあがりました。
「おまえは馬のわきまえがあるか。」
「はい、時には乗ることがございます。」
「まあ気をつけよ。」
「はい。」
 しばらくして、うしろから見上げますと、若者は馬の上で()ねむりをしているらしく横ざまにおちかかろうとしては、いずまいをなおしなおしすること、幾度(いくど)とも知れません。
「越人、どうもけんのんで見ていられないな。」
「さようでございますね。」
「これ、気をつけよ。」
「は、はい。」
 若者はびっくりしたこえで返事するまもなく、また居ねむりをはじめます。
 あぶないあぶないと思いながら、馬上の若者の姿に気をとられていた芭蕉は、その時ふと、こんなことを考えました。
 ――御仏の心にわれらをごらんになったら、みな御同様であろう。誰もかれもあぶない。一寸先は(やみ)の身だ――
 そうして我にかえった心におのずと浮かんできたのは、さきの日見てすぎた桟の(けい)でありました。千仞(せんじん)の谷をかつがつきりひらいて()けわたした板木に二すじ三すじまといついた(つた)が、うす色づいた葉うらをかえして(おのの)いでいるありさまが、うきぼりのように心の底によみがえってきました。
 芭蕉は矢立(やたて)と紙をとり出して、
  ――桟や――
 とそれだけ書きとめました。
 その夜のこと、芭蕉は更科(さらしな)にほど近いあるはたごやの一間に灯火をかかげて、夜半すぐるまで句案(くあん)にふけっていました。(よい)のほどはかの()れだった道心の坊が、ひとり考えこんでいる芭蕉のようすを何か旅の(うれ)いに沈んでのことと察して、かたわらにいざりより霊験話(れいげんばなし)などしかけたのにはほとほと閉口(へいこう)しました。とてものことに酒をあつらえてふるまいましたところ道心は、相手の心がひるがえったとばかり喜び、かつは(よい)いもめぐってたちまち眠りこけてしまいました。師のかたわらに坐して句作していた越人もやがて床に入りました。
 夜がふけるにつれて、とおく鹿(しか)おうこえ、引板(ひきいた)のひびきなどきこえ、()()がくれの月かげが(かべ)の破れからさしこんできました。秋のこころは身にしむばかり、()し方行く末さまざまの思いごとは、やがてじねんじねんに、今日途上(とじょう)でよみさしておいた ――桟や――の句に()って行きました。
 つぎの朝芭蕉が越人に示した句帖(くちょう)には、次の一句があらたに(したた)めてありました。
   (かけはし)やいのちをからむ(つた)かつら


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