落柿舎(らくししゃ)        土田耕平


 去年の夏、京都のほとりに、(しばら)く住んでいましたので、嵯峨(さが)の落柿合を一見したく思い、七月はじめのある日の午後、出かけて行きました。
 落柿舎はむかし去来(きょらい)という俳人の別荘(べっそう)で、去来の先生の芭蕉(ばしょう)が、元禄(げんろく)四年の四月十八日から五月三日(旧暦(きゅうれき))まで滞在(たいざい)した嵯峨日記という文章があり、それで一そう有名になりました。
 嵯峨駅で汽車を下りますと、()ぐ目のまえに、うっそうとした竹薮(たけやぶ)と、麦畑の()りあとにまぶしく日のさしている(なが)めが(ひら)けました。
   ほととぎす大竹薮を()る月夜
   一日一日麦あからみて()雲雀(ひばり)
 嵯峨日記の中に見えるこれらの句が、まざまざと心に浮んで来ました。さて当の落柿舎はどこであろうかと、田圃(たんぼ)中の細径(ほそみち)辿(たど)り辿りして、()う人ごとにたずねて見ましたが、(だれ)も知った人はありません。
「ラクシシャつて、それは何ですかね。」などとかえって聞きかえす人さえありました。
 行く行く、かたわらの田圃に(くわ)を打っている一人の若者を見出(みい)でて、やっぱりこの人も知ってはいないだろうか、とおもいながら、
「落柿合というところは……」
 とたずねますと、
「そこです。(その)の竹薮のかげです。」
 と指さしてくれました。
 若者のことばどおり、すぐ間近の薮かげに「落柿舎」と記した建札(たてふだ)が目にとまりました。くちなしの(かき)萱葺(かやぶき)の小家がのぞかれ、そのささやかなかまえは、芭蕉、去来などのつつましやかな俳句生活を目のまえに見るここちがしました。
 わたしは、しばらく垣の外にたたずんでいましたが、ここには去来から九代目の宗匠(そうしょう)が住んでいるということを、かねがね聞いていましたので、その人になりと一寸(ちょっと)()わせてもらいたい心地がして、なかばあけはなしてある(しば)の戸をくぐって、左手の中庭の方へ入って行きました。真夏のこととて、あけひろげた障子(しょうじ)の中に、年ごろ六十ばかりの人が、この(あつ)さにネルの茶色衣を着て、一人ぽつねんとすわっていました。
 来意(らいい)をつげましたところ、むっつり不機嫌(ふきげん)そうな顔をしていましたが、やがて(やわ)らいだ調子になって、(えん)さきまで出て来て、何かと話してくれました。
「あなたはどちらの方ですか。」
 とのたずねに、
信州(しんしゅう)のものです。」
 と答えますと、
「そうですか、今しがた、やっぱり信州の方が見えました。松本在の学校の先生ですが、生徒たちをつれて、毎年今じぶんに見えます。」
 と宗匠さんは、うれしそうにいいました。
 庭さきに一本の柿の木が立っているのを見て、去来が()んだ、
   柿ぬしや(こずえ)は近きあらし山
 という句を思い出でて、そのことをたずねますと、宗匠さんのいうには、
「いえ、これは植つぎの柿です。柿というものは、そのように寿命(じゅみょう)の長いものではありません。けれど、あらし山だけはたしかに去来先生の詠まれたものですよ。」
 と、垣ごしにほど近く、こんもりとした青葉の山をさし示されました。
 わたしは、落柿合の絵葉書(えはがき)をもとめ、宗匠さんのたてて下されたお茶をいただいて、約一時間ばかりして、おいとまを()げました。
 京都は市区改正のため、おどろくばかり人家がひろがり、雑沓(ざっとう)(ちまた)になりましたけれど、ただ西郊外(こうがい)の嵯峨野あたりは、薮と田圃とめぐりの山ゆたかに、昔ながらの奥ゆかしさがあります。華美優柔(かびゆうじゅう)に流れた元禄の時代に、芭蕉一門の人たちが、世慾(せよく)をはなれて淡泊(たんぱく)生涯(しょうがい)をすごしたことが、思い合わされました。

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