歌集「一塊」 土田耕平 (FILE 3)
昭和14年 寒庭 冬至より日を數ふれば此頃の日射はすでにのびたるらしも 暗くなる障子の外にこの夕もみそさざい啼く宿りすらしも 苔ふりし庭のおもてに沁む音は氷雨にかあらむ夕づきにつつ わが門に花かすかなる冬至梅日は惠那山に傾きにけり 入院籠居 二夜 をとめらの唄などききてなぐさむはわがこころやや靜まりぬらし あたたかき國べに來りほがらかにうたふをとめらに心ゆくかな 土のいろを見つつなつかしこの土の ありがてぬ幾日つづきぬあやしくも佛のみ名をこふる時のま 居常吟 懈からぬほどをはかりて歩みくる まさかには思はぬものを夢にしてわが見るものか故郷の山を 沁々と妻のいのちをかねおもふわれの齡のふけにけるかも 若葉原雨晴れゆきしまなかひに雪しろじろと立てる山見ゆ このごろの朝な夕なに 諏訪ぐにの空をこほしく望みつついつ歸らむといふこともなし 惠那山のよく晴るる日は起きいでて背戸の小縁に妻とたちをり 上空に湧きたちにける夏雲の放つ光のつよくしづけき 立てる草おのもおのもに影曳けり夕づく庭にこころ戀しき もんぺ穿きて小畑つくれるわが妻に隣の嫗來て親しめり まなかひの青山の秀を いづくより入りくるならむ枕べの疊這ひをる蟻ごの群は いちはつの花さきいでて目にあれど何かかはらむこころともなし ひろびろと水田の光つらなりて飛ぶつばくらめ啼くこゑ聞ゆ さつき雨ふる頃となりて軒下の南天は白き蕾を持てり 天曇り深きゆふべをわが宿の桑の葉さわざ風吹きわたる 山脈は南に低くうち臥して夏むかふ空の ゆるやかに幾棚なせる山脈のところどころに夜の灯ともれる 桐の花しきりに散りて土の面に匂をそそぐ如く思ほゆ 桐の花ちりしきりつつ夕見れば梢さびしくなりにけるかも 伐りとりし桐の大株殘る庭に若木の桐のすくすくと立つ 遲躑躅咲きいでにけり一つ枝に まだ堅き莟ながらに活けたりし一八のはな開きそめたり 梅青葉光ひそけし たえまなく水田のかぜのわたり來て梅雨の家居は身體たゆしも 瀬音きくと橋の袂によりつれば瀬音にまじり河鹿のこゑす この川のながれの上は山はざま深くかげりて雲沈む見ゆ 何もなきわれの 背戸縁に妻をよびきて惠那山を指さす今朝の清き晴はも 植ゑつけを終へし田面の やや深き茂りとなりし青田の面風のあたりの筋だちて見ゆ 宵はやく月いでにけり青田並皆あざやかに遠まで見ゆ 朝顏と百日草と咲きならびこの二草の 朝顏ははやくうなだれぢりぢりと日射は移る百日草の花 青きいろ黄にうつろふはたはやすし庭の木草になじみつるほど 蜘蛛の巣のめだつを杖にはらひつつさ庭 蜻蛉がいくつともなくとまる影窓掛ひきて臥しつつをれば 秋の日の西日となりて窓のへに並べし 縁側のはしにかまへし蟷螂が急にしざるは何おびえしか 蟷螂に指をふるれば身がまふをしばらく我はたはむれてゐつ 代田氏 相見ざる幾年ならむ一つ道をはるかに行きし君をともしむ 青山 燒跡の小病院にこもります君をかすかに見るここちせり 門に立ち送りたまひし醫姿をおもひ忘れずけふのときまで 折々 よき石を磨りあはす如きひびきあり君の歌調を常に羨やむ さまざまの木草咲きをる屋敷町我貧しきを思はざりけり 板橋の林野ひらけし長手路聖學院女生徒が群なし來たる 春の日は沁むるが如し行かひし 通學の都少女が下駄穿きの脚あらはかに 中學の二年生にて赤岳にのぼりしことが未だにこひし 雲間より月の光のさしきたり岩秀の上のわれらを照らす 牡丹は古來支那の國の花 おもおもと牡丹開けり 海を憶ふ 秋づけばしづまりかへる海のいろ 伊豆の崎が海に盡きたるところより遠き潮瀬がながれくるなり 山のうへにのぼりてみればうなばらの水平線は大き弧をなす なぎし日のこの大波は南洋に二週間まへにしけありしといふ あら波に磯にうちあげし海くさをひろふをみなら聲あげてをり 磯砂に足さしのべてほとぼりのほとほと親し暮れしばかりの 思出より 深山木の古りにける香ぞ身に沁みてとはにおもほゆそのさびし香を 谿川のとどろくおくに行き暮れてたかき峰より月てらしたる 米とぎにおりし谿川の水きよし米を漬けむをしばし惜しめり 谿川のおとをつつみて降りきたる山の雨こそさびしかりしか 樂の音 征く兵の樂の音つづき長びける國のたたかひをおもはざらめや 梅雨入 いとどしく朱實もちたる古楓 ひねもすに雲吹きうつりひむがしに深く棚なす赤石の山 ひさびさに北極星を見て佇てりさみだれの空とほく晴れたり あしたより雨くらく降る庭隈にとぼとぼ目立つどくだみの花 池のへに立ちしげみたる古楓さみだれくらく降りにけるかも ふるさとの諏訪舊道に山くさの茂らむさまは今もかはらじ けふなりと行かば行くべき故里を近くもおもひ遠くもおもふ をみなごはあはれ嫁ぎの道ゆゑにその背の國をおのが國とす 悼丸山夫人 風越の山を掩ひて雲悲しすぎにし人の面影にのみ 父を憶ふ 價なき玉の喩へのうま酒をうら樂しみて世を終へし父 世をはやく過ぎにし父のよはひより三年のよはひ我はのびにけり 老の名を負へる われはもよ何たのしまむやまと歌 わが歌のごときはつひに貧しくて酒の樂しみに如かぬを知れり 萬葉の歌をしよめばゆたけきにその時のまを我とぞ思ふ ちちのみの父は知らざりし萬葉の歌調べつつ父をしぞ思ふ たまきはる命ながらへ今年また 山浦 かすかなる徑おりくれは山水の流れに沿ひて芹青々し 夕月の淡き光にとぶ螢流れのうへに映りてすぎぬ 豌豆の花咲きそめて家の畠に雲暗く吹く頃となりにし 門田 夕早く稻の葉末にのぼる露まだ暑き日の射してゐながら 田草とる子どもに言へるおぢの聲ゆふつゆ張るをこぼす勿れと 若稻の伸びたつさまはいきいきと露たま張りてかがやき滿てる 青田原そよぎて天の霽るるなべ河のむかうに虹立ちにけり 稻妻の音なきひかり見つつをり外山のそらのひとむらの雲 起臥吟 秋の氣のおもむろにしていたるなべ草もみぢ佳き國に起き臥す 霜ふりて庭のどうだん色づくを今年は 山脈の紅葉ひたすらにうち映えてけふや限りの秋過ぎぬべし 月あかき杉のこずゑを渡りくるひととき風のおとぞ身に沁む 身ひとつのよしなしごとにむすぼれて早く老いづくか今宵も寢ねむ ひさびさに 西の海の波に濡れゐし小石粒拾はれてきてわが手にあるよ うま飯を一口づつにをしみ食ふこのごろ 小金井の市にもとめし櫻杖やすく 歌姫のすがた忘れずあはつけく花の堤を旅連れ來つる 或人より菊のおとづれ賜りしに 思ひを寄せて 夢 ぬば玉の夢に見しちふおとづれも遠世の沙汰の如くしぬびき うつつなし 夜な夜なの夢のまぎれにあやしくも佛の夢を見つるものかも 佛體にこゑさへありきあざやけくくすしき夢をわれは見しかも 錢かねのことをおもひて寢し夜半にとりとめもなき夢を見つづく たまたま 水枕の水入れかへてこころよし晝のねむりにしばし就くべし いたりて聲低かりしといふ武藏の 首相の顏は玉錦に似たるかとわれ われを言はば反英親獨の氣味あるも逝くかげろふの如くはかなし 初冬 おりたちて暫し見てをり驛前のすずかけの木の黄葉したるを すずかけの黄葉けざむき幾朝を齒醫者へかよふ ありなしの今日も暮れつつとほどほに惠那山つつむ雲明りをり 惠那山は 朝闌けてやうやくにしてあたる日に庭邊の どうだんの紅葉ふかみて立ならぶ楓はややにおされ氣味なり 山皺のきはだちて來し晝つ方病めるこころにむすぼほれ立つ 掃きためてうづたかき落葉にほひたち 窓の日の光あかるむを待ち久し狹間の霧のふかき冬來ぬ 旅國にたづさへて來し古事記傳辭書のごとくして しとしとと雨と雪ともつかぬもの二ときばかり降りてゐたりき こもりゐて障子の日脚移る見つ冬は身近くしじまりにけり 古庭に厚くしきつめし苔のうへひとときあかき夕ひかり射す 冬眠のけものの如く身惜しみて室に乏しき書しまひこむ 霧の山 しとしとと霙にかはる たえまなくみぞれの雪のふりかかる椹のうれに 太橿のもとに寄りたちて親しけれ今年は病まず冬を越すべし 歳末のたまはりものをつくづくと命に沁みて思ひ眠りぬ あたたかく冬ごもりせむ設けにと炬燵邊近く 一年も終らむとしてあと十日われ 昭和15年 題新春 大八洲雪しろたへにさはやけしあたらまの年はめぐり來にけり たまちはふ御名方神の いくさ場に兵がよみたる歌も見つよのつねならぬ年を 元日 ついたちの今日寢すぐして起きしかば西がた空の水の如き澄み 新光 ひむかしの潮見の嶽にうら若き茜にほひて春たちにけり みんなみに國おしたらし遠州につらなる山脈見ればゆたけし 遠州につらなる山々遠く低く 老叔父のこころこもれる祝ぎ餅をおしいただきて年祝ぎにけり この餅は越路の うはぎ そこばくのうはぎの花を紙のうへに選みわけをりたのしく思ほゆ 藍がちのうはぎ八 野の庵にうはぎの花をこひめでて奈良の代びととわれありぬべし 奈良の代のうはぎの歌をよみめでて 顎のへにぞくぞくとしてまじりこし霜のごときものを惡み剃りおとす 折ふし 枇杷の花 枇杷の花かすけく咲きて影ありぬ妻と二 枇杷の花やや咲きそめてともしかも古妻とよぶも未だふさはず ほとほとに言に背かずなりにしかこの 冬の日の暮るるは早し枇杷の花ただあはつけく眼にとまるかな 山もみぢ 風越の山のもみぢ葉褪せゆきてこころとどまる色としもなし やや深きおもむき添ひし古紅葉かへでどうだんの うつし身の齒の衰へに食へぬもの多くなりたりくろ米なども たしなみし鹽海草のたぐひなど忘れしごとく今あはれなり 低迷抄 非常時の論調にこころ觸るさへに病みつつあればあはれ弱しも おもてだつ世相の沙汰はさもあらばあれ底に解きがたき苦澁とどむる ソヴエートの名もややややに親しみてアンナカレニナを今朝おもひいでつ ソヴエートの文學欄に 極寒 夜具かつぎ炬燵の上に磨る墨のざくざく凍るにおもてしがみつ 一枚のみのり寫すと磨る墨のこごる寒さよ手におぼえなし うら葉みな冴え光りつつあか橿の幹たくましく貫き立てり 春雜詠 待ちえたる春とし思へど橿が枝にひしめく風はいたく寒しも 夕凝の霜ははやくもおきにけり柞の木原わけつつ來れば 骨董のごとくしてややに樂めり古ごとぶみの古ごとの 書などもよめなくなりてこちごちに 忘れえぬよき 石垣に春日あかるくはこべらの 山榛の花あをみ來し山のたわ一すぢ通る徑白く見ゆ あたたかき雨いたれりと 梅さくらすぎたる庭に木の芽立おのもおのもに形づくれる ゆふぐれをなべて山田に蛙なくこゑごゑきけば寂しかりけり 口髯の白くなりゆくも疑はず十日目頃にはさみきりつむ 一つ家に音をひそめてゐる妻よかかるあはれも十年ふりしか 百穗の御弟子の筆になりし書の雛の畫かかげなつかしみつも きびしき世相にありて神の如きしづけさ保てり歌といふもの 詠みあぐるもろもろ人の歌のすがたわれの力のつひに足らざる うつせみの命のほどと思ひ知らばひとつ歌 花園 夏の花さきたる中に心ひくナチスの族の矢車の花 武藏野 吹きすさび止むかたもなし凩のそらに幽けき日輪の澄み 凩のやむきはもなく廣野はら砂ふきあがり濁る空のいろ 和語燈録 誰びとの筆にかあらむ源空のみのりとどめしこの 古事記以後の文章をここにさぐりえて和語燈録に心ゆくかも 永光 とこしへの光やいづら今となふ たのむべきわが行とては今となふみ名一こゑの外にやはある 底こもり 一塊 終 巻末記 「一塊」目次 作品集HOME |