アカイ子の話    土田耕平

  雄略(ゆうりゃく)天皇がまだお若いころのことでした。ある日、大和(やまと)実和(みわ)川のほとりへお遊びに行かれました。お天気がよくてあたたかい日でありましたから、天皇は、足にまかせてあちこちとお歩きになりました。やがて、川ばたのあし(●●)の間をわけて、水(ぎわ)へおりてごらんになりますと、そこに一人の娘が洗濯(せんたく)をしておりました。天皇の方をふりむいたその顔は、花のようにうつくしくありました。
 「おまえの名は何というか。」
 さっそく天皇はおたずねになりました。
 「アカイ子。」
と娘は少しはにかみながらお答え申しあげました。
 「よしよし、おまえをわしがめしあげるまでどこへも行かずにおれよ。わしは大ハツセノミコ卜(雄略の御本名)である。」と天皇は大そう満足したごようすで、やがてその場をお立ち去りになりました。
 娘は一人になったとき、
 「わたしはなぜ軽はずみに、自分の名まえなぞあかしてしまったことだろう。」
と悲しげにためいきをつきました。(そのころの女は、自分の夫よりほかに名まえをあかすものでないとしてありました)。
 「しかし、大ハツセノ(みこと)はおえらい方だ。あの方に宮仕えできるのは、身にあまる幸福だ。」 とまた娘は考えました。
 それから後娘は、家にとじこもって、どこへも出ませんでした。そして、天皇のおめしなるのを今か今かと待っておりました。一年すぎ二年すぎました。天皇からは何のお沙汰(さた)もありません。それでも娘は待っておりました。
 「あの方はりっぱなお顔をしておられた。いつわりをいう方とはおもわれない。」
 娘はーしんに天皇のおことばをば信じて(うたが)いませんでした。そのうちに、もう幾年(いくねん)とも知れぬ年月がすぎてしまいました。娘が鏡を手にとって見たとき、おとめの姿はいつかうせてその(ひたい)には老いのしわがこまかくよせていました。
 「あたしはあの方のことをおもいつづけて、一生過ぎてしまった。今は宮づかえする望みとてもない。ただこの世のなごりにもう一度お目にかかりたいものだ。」
 こう決心して、アカイ子ははじめて天皇のお住まいへたずねてまいりました。天皇もアカイ子と同じようにお年寄りになっておられました。あの若々しいほおのくれないは、もはや白いひげにつつまれておいででした。アカイ子がじぶんの名まえを申しあげますと、天皇は久しく(うで)をくんでお考えになっておりましたが、
 「ウム。そうかそうか。わしはすっかり忘れていたぞ。」
 天皇はしっかとアカイ子の手をお取りになり、(なみだ)をうかべて、つぎのような歌をおうたいになりました。
 ヒケタノ ワカクスバラ ワカクエニ イネテマシモノ オイニケルカモ
 ああおまえはもうこんなに年をとってしまったのか、ゆるしてくれよ。という意味のお歌であります。そのときアカイ子の泣く涙が、赤染(あかぞめ)(そで)にぬれとおって血潮(ちしお)のようであったということであります。
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