寒山拾得(かんざんじっとく)            土田耕平

 支那(しな)天台県の山中に国清寺(こくせいじ)という大きなお寺があります。そこに拾得(じっとく)という坊さんが住んでいました。拾得は修業(しゅぎょう)()んだ(えら)(ぼう)さんでありましたが、身には(きたな)(ころも)をまとい、頭の毛は茫々(ぼうぼう)()ばしたまま剃刀(かみそり)をあてることもありません。またその顔つきはいつもぼんやりと眠たそうに見えました。それで、国清寺にいるたくさんの坊さん達は(だれ)ひとり拾得の偉いことを知りません。拾得の役目は寺の食事係でした。みなの食べるものを料理したりその食器を洗ったりして、毎日黙々(もくもく)(はたら)いていました。
 園清寺から少し(はな)れて西の方に、寒巌(かんがん)という石室(せきしつ)があります。そこに寒山(かんざん)と呼ぶ坊さんがたった一人で住んでいました。寒山は石室の中で夜昼坐禅(ざぜん)をしていました。そしてお(なか)がすくと、国清寺の拾得のところへ出かけて行きます。拾得はみなの食べあまりを寒山さんに分けてやり、自分も一しょに食べました。衣の汚いこと、頭の毛の伸びていること、顔つきのぼんやりしていること、寒山は拾得の()きうつしと云いたいほどでした。この寒山はやはり(さと)りのひらけた偉い坊さんでありました。そしてやはり拾得と同じように、その偉いことが誰にも分かりませんでした。
 この国清寺には、もう一人偉い坊さんがいました。名は豊干(ぶかん)と云います。豊干は寺の裏手(うらて)僧院(そういん)寝起(ねお)きしていて、毎日の仕事は、みなの食べる米を()くことでした。米をつくひまひまに、豊干は拾得を(たず)ねたり寒山を訪ねたりします。時たま三人が一所になることがありますが、滅多(めった)に口をきくことはありません。ただ顔を見合わせて、「お早う。」などというだけです。
 豊干は三人のうちで一番年上で、白髪(しらが)が大分()えていました。そしてまた顔つきに少し(こわ)いところがあり、背丈(せたけ)図抜(ずぬ)けて高くありました。拾得は寺の(くりや)から外へ出ることが恐らくありませんし、寒山は石室の中で座禅ばかりしていますが、この豊干は時々裏の山へ遊びに行きました。山には(とら)がたくさん住んでいますので、寺の坊さん(たち)は大そう恐がっていましたが、豊干は一向に平気でした。
 豊干は詩をつくることが好きで、じぶんの気に入った詩ができた時は、くり返し()り返し(ぎん)じあげてひとり(えつ)に入っていました。そんな時には、山の虎どもは豊干のまわりに集まって、詩吟(しぎん)に聞き入るという風でした。虎はみな豊干になつきました。ある時のこと、いつになくよい詩ができましたので、豊干は大そう機嫌(きげん)よく、かたわらに来ている一匹の虎をひきよせて、その背中(せなか)(またが)りました。そして虎を歩ませながら、詩を吟じ吟じて時のたつのも(わす)れていました。と、あたりがにわかに(さわ)がしいので、心づいて見ますと、虎は豊干を乗せたままいつの間にか僧院の前へ来ているのでした。
寺の坊さん達が逃げまどって、アレヨアレヨと(さけ)んでいます。豊干はいそいで虎の背から下りました。そして虎は山へ追い返し、自分はいつもの仕事場へ入って、(だま)って米を搗きはじめました。
 こういうことがあつてから、寺の坊さんたちは急に豊干を大切に扱うようになりました。豊干がただ人でないことに始めて気づいたのです。毎日の仕事であった米搗臼(こめつきうす)は外へかたづけられ、その居間(いま)立派(りっぱ)(かざ)り、寝具(しんぐ)をととのえ、食事の時には給仕(きゅうじ)の小坊主がつきそうことになりました。けれども(つね)の豊干は、いかにも迷惑(めいわく)そうな顔つきをしていました。
 豊干は厨で働いている拾得を訪ねて、こう云いました。
「わしはもうこの寺がいやになった。今夜にも逃げ出すつもりだ。」
 拾得はにやりと笑って、
「それもよからう。」と云いました。
 それから豊干は、石室で坐禅をしている寒山を訪ねて、同じことを告げました。
 寒山は目をつぶったまま、
「なるほど。」と云ったきりでした。
 その晩、豊干は皆に知られぬようにそっと国清寺を()け出しました。そして乞食坊主(こじきぼうず)となって、あてもなくぶらぶらと旅をつづけました。豊干の足は北へ北へと向かいました。やがて(いく)十日かの後、長安(ちょうあん)(まち)へ着きました。
 長安は支那第一の大都会、()ちならんでいる家は大きくいかめしく、行きかう人のよそはいもきらびやかであります。その中を豊干は、雨風に色あせた衣をつけ、頭の毛は二寸あまりも伸ばして、あさましくやつれた姿を運んで参りました。家の門々に立ちよっては、数珠(じゅず)()りお(きょう)をささげますが、(いそが)しい町の人々は大方、
御無用(ごむよう)、御無用。」
というすげない返答(へんとう)です。けれども豊干は退屈(たいくつ)のようすもなく、一(けん)一軒と立ちよって(まい)ります。中には一掴(ひとつかみ)みにあまるお金を喜捨(きしゃ)して供養(くよう)をもとめる家もあり、紙一枚の報謝(ほうしゃ)をおしむ家もありますが、豊干はいずれも同じようにねんごろにお経をあげました。
 やがて街はずれの、官宅(かんたく)のならんでいる通りへかかりました。ある門口(かどぐち)に立ちよって読経しておりますと、女中らしい女が出て来て、豊干の顔をしばらく見ていましたが、
「坊さん、あなたは病気のお(まじない)をして下されますか。」
と云いました。
「どなたかお悪いのかな。」
と豊干がたずねました。
「ハイ、家の主人なのでございますが、今朝ほどから大そう頭痛(ずつう)がいたし、医者の手あても(こう)なく(こま)って居るところでございます。」
と女が云いました。
「ともかく御主人にお目にかかりましょう。」
と豊干は草鞋(わらじ)をぬいで内へ入りました。主人というのは四十あまりの立振(りっぱ)な男で、一目見て役人だということが分かります。いかにも苦しそうにして、寝床(ねどこ)に身をふせております。豊干はつと主人の(そば)()って、その(ひたい)に手をあてて、何か口の中で(とな)えておりましたが、
「さあ、もうよろしい。」
と云いました。主人は顔をあげました。
「いかがですな。お(いた)みは?」
「アッ、すっかりなおった。これは不思議(ふしぎ)だ。」
と主人は寝床から起きなおりました。
「ではさようなら。」
と立ち去ろうとする豊干を呼びとめて、主人が云いました。
「しばらくお待ち下さい。病気をなおしていただいたお礼をいたしとう(ぞん)じます。」
「人助けは出家の役目、御念(ごねん)(およ)ばぬこと。」
と豊干はさっさと草鞋をはいて出て行こうとしました。
「まあしばらくお待ち下さい。御僧(ごそう)はどちらのお寺に居られますか。」
「わしは天台県国清寺の坊主(ぼうず)じゃ。」
「ああさようでございますか。実は私は台州の主簿(しゅぼ)として数日のうちに赴任(ふにん)することになってをります。台州から国清寺まではさほど遠くもありません。是非(ぜひ)一度お(たず)ねいたしていろいろお教えにあずかりたくおもいます。私の名まえは閭丘胤(ろきゅういん)と申します。」と云いました。
 主簿というのは日本で云えば県知事ほどの役ですから、官吏(かんり)としては立派(りっぱ)な身分です。それが一人の乞食僧(こじきそう)にこんなに丁寧(ていねい)なことば使いをするのは、お呪のききめによって、豊干を尋常(じんじょう)な僧でないと(さっ)したのでありましょう。
「わしはもう国清寺へはかえりますまい。」
と豊干の言葉はそっけないものでした。
「もうおかえりない。それは残念(ざんねん)でございます。では(ほか)にどなたか(えら)いお僧が居られましょか。」
 閭丘胤はなおも熱心に問いました。
拾得(じっとく)寒山(かんざん)という二人がいます。」
「それはどういうお方ですか。」
「拾得は普賢菩薩(ふげんぼさつ)、寒山は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)です。」
「へヱ、なるほど。」
と云つたが閭丘胤には豊干の言葉の意味がよく()みこめませんでした。重ねて(たず)ねようとした時、豊干の姿はもう門口(かどぐち)から消えていました。

 国清寺では豊干が立ち去ってからも、拾得は相変わらず厨で働いて居り、寒山は石室で毎日坐禅をして居りました。食事時になると寒山が拾得の厨を訪ねて行って、二人は同じ飯台(はんだい)に向きあいますが、いつも黙りこくっております。豊干の(うわさ)さえもしません。過ぎ去ったことは何もかも忘れてしまったというような顔つきをしております。
 やがて豊干が立ち去ってから大分日数がたって、(しも)がふり木の葉が散る(ころ)になりました。ある日のこと寒山は拾得を訪ねて、厨の(かまど)()えている火に手をかざしながら、(たがい)に顔を見合わせていました。ふだん話らしい話をしたこともないのに、その日は何かぽつりぽつりと語りあっています。
「閭丘胤とは何かね。」
と、これは寒山の声です。
「こんど台州に赴任してきた主簿の名まえだ。」
と、これは拾得の声です。しばらくして拾得が、
「どうも豊干がしゃべったらしい。」
と云いますと、
「そうかも知れぬな。わしらも逃げ出す時が来たようだ。」
と寒山が答えます。
 二人がこんな問答をしている時、寺の客間の方には、人の足音や挨拶(あいさつ)(かわ)す声で大そうにぎわって居ります。閭丘胤が大ぜいの従者(じゅうしゃ)をつれて、寺へ(たず)ねて来たのです。県の主簿を(むか)えるのですから、寺の僧たちはいずれも威儀(いぎ)をととのえ、中に道翹(どうぎょう)という僧が接待役(せったいやく)となって閭丘胤の(そば)につきそいました。閭丘胤は客間へ通されて一通りの挨拶が終わりますと、すぐに(たず)ねました。
「拾得と申す御僧がこちらに居られましょうか。」
が答えて、
「ハイ、居ります。よく御存じで!」
「どういうお仕事をして居られますかな。」
厨働(くりやはたら)きをして居ります。」
 厨働きと聞いて、閭丘胤は一寸(ちょっと)不審(ふしん)そうな顔をしましたが、またこう(たず)ねました。
「寒山という御僧も居られましょうな。」
「ハイ、寒山は寺の西寄りの石室に住んで居ります。」
と道が答えますと、かたわらの一人の僧が、
唯今(ただいま)厨へ参って拾得と話をしている様子(ようす)でございます。」
と言葉をそえました。
「それは(ねが)ってもないこと、これからそのお二人のところへ御案内(ごあんない)を願いましょう。」
と閭丘胤はつつましやかに云いました。
 道は、閭丘胤が何用あってあの(きたな)い坊主二人に()おうとするのか、ふしぎにおもわれましたが、ともかく主簿の(のぞ)みどおり厨へと案内いたしました。
 寒い時のことで、厨の中はものの()える湯気(ゆげ)がもうもうと立ちこめております。その中に黒い影法師(かげほうし)が二つ向きあっております。
 道が厨の入口へ立って、
「オィ、拾得!」
と呼びますと、影法師の一つがこちらへ()り向きました。
「あれが拾得でございます。」
「ハアなるほど、そしてもう一人の方が寒山殿ですな。」
と閭丘胤はしずやかに厨の中へ足を入れました。そして二人の前へ行って、両袖(りょうそで)()き合わせ、うやうやしく礼をして、
「わたくしは台州の主簿閭丘胤でございます。」
と云いました。
 二人が(だま)っているので、閭丘胤はまた云いました。
「あなた方お二人は、普賢菩薩、文殊菩薩であられると(うけたまわ)りました――」
 これを聞くと、拾得と寒山はにわかに立ちあがって、厨から逃げ出しました。
「やっぱり豊干がしゃべったのだ。」
 という声がして、二人はカラカラと笑いながら、後をも見ずに()け去ってしまいました。それきり寺へは(もど)らなかったそうです。


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