左慈(さじ)曹操(そうそう)            土田耕平

 むかし、支那(しな)が三国時代といったころ、()の国に、左慈という法術師(ほうじゅつし)がありまして、おりおり、人目をおどろかすような法術――魔法(まほう)を使いますところから、大した評判(ひょうばん)でありました。
 魏の国王、曹操が、あるときのこと、その左慈をお城へ招きました。名のきこえた法術師のことゆえ、さだめて異様(いよう)な人物であろうと思って()って見ますと、これは全く思いの外、(たけ)のひくいみすぼらしい老人でありました。
 けれど、二言三言(ふたことみこと)話しているうちに、左慈が尋常(じんじょう)の人間でないということがわかってきました。それは、これまで曹操に逢いにきた人は、大てい、気をのまれて、おじけすくんでしまうか、でなければ、()いて平気なようすを、とりつくろっていました。左慈は、そういう人間とは、まるきり変わっていました。その両の目は、山の湖のようにふかく()んでいました。
 曹操は、家来たちをみな遠ざけて、(おく)まったじぶんの居間(いま)に、たった二人だけでさしむかいになりました。
 ついこの間のこと、左慈がある田舎道(いなかみち)で、百姓(ひゃくしょう)たちをよびあつめて、(くつ)の中から、
いくらとも知れぬ金貨銀貨をふるい出した、という話を、曹操は聞いていました。で、そのことをいって、
師匠(ししょう)、ここでその法術を、もう一度(ため)みてもらいたい。」
といいました。
「それはいけない。」
 左慈は、いいました。
何故(なにゆえ)に。」
「あなたは、富貴(ふうき)の身であられる、金銀に不足はございますまい。」
 しばらくして曹操は、
「師匠、法術などというのは、みんな(うそ)だろう。愚人(ぐじん)の目をたぶらかす児戯(じぎ)にすぎまい。」
 左慈のおちつきはらった目に、あざけるような色がうかびました。曹操の手がやおら(こし)の刀にかかりました。さっと電光一閃(でんこういっせん)、左慈のすがたは、かきけすように、見えなくなりました。やがて、正面の(かべ)が左右にひらいて、しずしずと左慈のすがたがあらわれました。曹操は、刀を腰におさめて、
「先生の法術をためそうとして、大きに失礼した。今の術は、何と申そうぞ。」
遁身術(とんしんじゅつ)じゃ。」
「今の遁身術を御伝授(ごでんじゅ)ねがえまいか。」
「術には伝授はない。みずから会得(えとく)するだけじゃ。」
「と申すと?」
念力(ねんりき)じゃ。」
 左慈のことばに、曹操は思い入っていましたが、
「さらば、そこにてごらんあれ。」
 こういって、ましぐらに壁に向かって、身をおどらせました。どしんと、曹操の大きなからだは、壁を破って、つぎの間にころがりました。
 (ちり)をはらって、面目(めんもく)なげに、破れた壁の穴から、もとの座にもどってみますと、左慈のすがたは、もうそこに見えませんでした。曹操は、いまいましげに(した)うちして、
「にくい(やつ)じゃ。」
とつぶやきました。
 それから、一月ばかり後のことでした。
 曹操がひとり、郊外(こうがい)(りょう)に出かけて、草原の道を歩いてまいりました。すると、むこうから左慈が、(ゆうゆう)々歩いてくる姿を見とめました。
「この間は、壁の中へ身をかくしたが、こういう原っぱでは、遁身術も役立つまい。」
 曹操は、こう思いましたから、顔をそむけて、左慈とすれちがいざま、腰の刀をぬくより早くきりつけました。たしかに手ごたえがありました。しかし、刀の下に二つになって(たお)れたのは、みにくい(ぶた)の子でした。
 からからと笑うこえとともに、左慈のすがたは、高く空にうかんでいました。
 「またやられたか。」
 曹操は、刀をぬぐい、豚の死体を足蹴(あしげ)にして、立ち去りました。
 その翌朝のこと、法術師の左慈が、何ものにか切り殺されて、郊外(こうがい)の草はらに(たお)れているという注進(ちゅうしん)がありました。曹操は、人をやって、その死骸(しがい)をはこばせましたところ、それはたしかに左慈にちがいありませんでした。
 ただ一太刀、(かた)から(なな)めにきりおろした手なみは、尋常でありません。
「一体、これは何者のしわざであろう。」
と死骸を見た人々は、みな(おどろ)きの目を見はりました。
 曹操は、そっと腰の刀をなでて、
「手あつく(ほうむ)ってやれ。」
と家来にいいつけました。

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