岩と栗の木問答 土田耕平
むかし、近江の国の東境の山に、一本の栗の木がありました。高さが三千三百尺、枝が三万三千本という、途方もない大きな木でありました。いつの頃よりか、この大きな栗の木の下を通る人は、ふしぎな目にあったり殺されたりするようになりました。
そのことをお聞きになったお殿さまは、
「そんな化け物を生かしておくわけにはいかない。」
とおっしゃって、御家来をつかわして、栗の木を伐ってしまうことになさいました。
御家来は、大ぜいの木伐たちをつれて出かけて行きました。ところが、そんなおそろしい大木のことですから、一日がかりで、やっとのこと幹の上皮をこそげる程の仕事しかできませんでした。そして、つぎの日になって見ますと、一晩のうちに、切傷はあともとめず、なおってしまうのでありました。そういうことが毎日々々つづいて、木の根もとにはたゞ木屑が山のようにたまってしまいました。
ある日の夕方、木伐たちは皆山小屋へかえった後へ一人の旅の坊さんが、山路を迷いこんで来てこの大きな栗の木の下にさしかかりました。坊さんは、この大きな栗の木を、つくづくおどろいて見あげていますと、
「おいおい。」
とよぶこえがしました。それは、栗の木の根もとに、もっくり頭をもたげている岩のこえでした。するとまた、
「何かえ。」
と返事するものがありました。それは栗の木のこえでした。
「何だって、おまえは人を殺したりおどしたりなんぞするのだ。毎日、鋸の責め苦にあうのは辛いだろうに。」
と岩がいいますと、
「それは辛いともさ。けれど、何もわしが好きこのんで人を殺したりなんぞするのではない。」
「ぢゃ、誰がするのだい。」
「樹の精だ。わしのからだに取りついている樹の精のいたずらなんだ。」
「そうか。それなら樹の精を追いはらったらよかろう。そこにいっぱい散らばっている木屑を焚いていぶしてごらん。樹の精なんてものは、すぐに吹っとんでしまうから。」
「ほう、それはよいことを聞かしてくれた。しかし、木屑を焚くことなんておれにはできない。」
栗の木はふうっと大きな溜息をつきました。と、高い木ずえの方で、さわさわさわさわと音がして真青な衣を着た樹の精があらわれました。
「岩と栗の木の問答を聞いた奴は、誰かいないか。クフン、クフン、そこらで人間のにおいがするぞ。いた、ここにいた。」
と樹の精は、とうとう坊さんのすがたを見つけました。そのとき旅の坊さんは、岩と栗の木の問答をききながら、茣蓙をしとねにお念仏をもうしていました。その手首にかけたお数珠の玉の一つ一つから、ふしぎな御光がさして、坊さんにとりかかろうとする樹の精を、追いのけ追いのけしました。そのうちに、東の空がしらしら明けてきて、里の方で鶏のこえがきこえました。
坊さんは、やをら起ちあがると、木伐たちのいるところへ足をはこんで、
「あの栗の木には何も罪はない。どうぞゆるしてやって下され。三日三晩木屑を焚きいぶして、樹の精を追いはらって下され。」といいました。そして、手首にかけたお数珠の玉を一つ抜きとつて、
「これを祀つて下され。あの木の下に岩がありますから、それを礎にして、祠をたてて下され。」といって、玉を御家来にわたしました。
坊さんのことばどおり、木屑を三日三晩焚きいぶし、栗の木の下の岩を礎に祠を立てて、お数珠の玉をまつってからというもの、樹の精は再びすがたを見せませんでした。大きな栗の木は、いよいよみごとに姿をつくり、国は富みさかえ、その御家来や木伐たちはみな一人一人冥利があったそうであります。
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