蜻蛉(とんぼ)            土田耕平


 秋になって、蜻蛉の数が大そうふえました。庭の飛び石の上、コスモスの花のさき、池の上に長く手をのばした松の枝、物干竿、日のあたっているところには、どこかしことなく蜻蛉がとまっております。その()きとおった羽や、大きな頭や、赤く絵の具でそめたような美しい尻尾(しっぽ)や、蜻蛉のからだは、私どもの目に親しい(この)もしい感じを(あた)えます。とんぼが、物の上にとまるときの姿勢(しせい)をよくごらんなさい。まず足でしっかり取りついてみて、ここなら工合(ぐあい)がよいとわかりますと、そのひろげた羽をほんの少しばかり()しさげるようにします。そして後、もう一度また押しさげるようにします。
 すると、とんぼのからだは、すっかり平均(へいきん)がとれて、とまった物の上にぴったりとおさまってしまいます。坊さんが座禅(ざぜん)をするときは、一枚の座布団(ざぶとん)の上に足を組み手を合わせて、静かにからだを()り動かし、息をととのえ終わると、もはや一身(いっしん)は水のようにすみきってしまいます。これを(じょう)に入ると申します。とんぼがとまるときのすがたは、この定に入る人のおちついたありさまに()かよっているではありませんか。こうして羽をおろしてしまうと、とんぼはそのまま久しいことじっとしています。丈夫(じょうぶ)な羽があって、高く高く空の上までもとんで行くことのできるとんぼが、まるで(かえる)のお弟子(でし)かなどのように、坐禅のけいこをするとはかんしんではありませんか。
 (みな)さんは気づいているでしょうか。とんぼは、物の上にとまっているとき、頭をくるくると揺り動かします。私は子供のじぶんに、その奇体(きたい)なしぐさをみて、とんぼは病気しているのじゃないかとおもいました。それは、私の幼い弟が重い病気にかかりました時、(あお)むきに寝かされた枕の上の頭を右に左にたえず動かしました。そのようすに、どことなく似ていたからであります。今でも、私はとんぼが頭を動かしているようすを眺めて、ふしぎな心地のする事は、昔とちっとも変わりません。私はこんな風に考えてみることもあります。秋の日のすみとおった空気の中には、私どもの目に見ることのできないこまかい針が一ぱいにうごいていて、(さと)感覚(かんかく)をもったとんぼは、そのこまかい針が気になってたまらぬのであろうと。
 それからもう一つ、子どものじぶんと変わりなく今でも同じ(うたが)いをもつのは、とんぼの眼です。私はとんぼをつかまえて見て、眼がどこにあるか分からぬので、ずいぶん困りました。いくらさがしても眼らしいものが見あたりませんでした。そのうちに、学校で理科の時間に、とんぼの複眼(ふくがん)のことを先生から教わって、あのまるい頭は、実は頭ではなくて眼だと知ってびっくりしました。そう()われてみると、なるほど眼にちがいありません。けれど、何という馬鹿げた大きな眼でしょう。もつと可愛(かわい)らしいとんぼにつかわしい眼が、まだ別にありそうな気がしてなりません。
 私は今でも、縁さきなどへとんでくるとんぼを時々つかまえて、その小さな姿を仔細(しさい)にながめるくせがあります。子どものじぶんには、一度つかまえたとんぼは、逃がしてやるのが()しくて、羽をきって机の曳出(ひきだし)などへ入れておきました。すると翌朝(よくあさ)はもう死んでいるので、前の川へ流してやりました。私はそうしてずいぶんたくさんのとんぼを殺しました。

inserted by FC2 system