悲しき勝利 土田耕平
私が十一の年のことであります。 その年の春ごろから、父は病みつきまして、毎日の役所がよいを そのころ、私どもの住居は、街の中でありましたので、庭といっては 「お父さんは、きょうから などと笑いながら、私の見ている前で、一二々々、と 「もう今日はこれでおやめだ。」 といって、縁がわへ ある日のこと、父は役所のかえりに、小さな 翌朝父は、裏庭でまきわりをはじめました。母と私はかたわらで眺めていました。 「よいしょ!」 とかけ声とともに、うちおろされた 「どうだお父さんは と父はうれしそうにして、さらに二三本の 父はどうかして、もう一度じょうぶのからだになりたいと思ったのでしょう。さまざまな健康法をこころみたことを、私は思い出します。そして、いずれも長つづきはせずにやめてしまったようにおもいます。 ある日のこと、私が学校からかえりますと父は庭にいましたが、 「 といいました。父はそのとき、どこから求めてきたのか、白木のつえを手に持って、何か運動をしていたようでありました。 私はかばんをはずして、庭へかけおりました。そして、ものをもいわず、父がさしのばしているつえのさきへとりつきました。子どものころ、私は力じまんの方で、学校友達のうちで、決してひけを取ったことはありませんでした。けれどまだ十一の子どもです。父と棒押しして勝てるつもりはむろんなかったのであります。 「ソラ、力一ぱい押してきな。」 と父はつえのはじを下腹へあてがって、両足をふんばっていました。私は押してみました。なかなか動きそうもありませんので、こんどはうんと力をこめて一いきり押してみました。すると、つえはぞうさもなく前へゆるいで、父はどんと 私は事の意外なのにびっくりしましたが、やがて父が笑い笑い起きあがるのを見ますと、急に、 勝った勝ったという気持になって、あわてて逃げるようにして家の中へかけこみました。私はうれしくてたまらなかったのであります。 はじめて父に勝った喜び、それは子ども心につよくひびいたものと見えて、後折にふれては思い出されました。その思い出がくりかえされるたび、喜びとのみおもったかんじょうが、いつのまにか悲しみにかわり、その時の父の笑いが、いかにもさびしかったことに、私はきづきました。二十年もすぎた今、私は泣きたいほどの心持で、あの悲しき勝利をおもい、 人の親というものは、じぶんの子どもに負けることは、かえって喜びだそうです。けれど、あの時の父は、子供の成長を喜ぶ心と、自らのおとろえを知った悲しみと、そのいずれが大きかったでしょうか。私は |
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