悲しき勝利    土田耕平

 私が十一の年のことであります。
 その年の春ごろから、父は病みつきまして、毎日の役所がよいを(おこた)るようになりました。しかし、父のようすは、よそ目にはそれほど悪いところも見えませんでした。幼い私は、その病気をしんぱいなものとは少しも知らず、父が一日家にいることを内心よろこんでいたのでありました。
 そのころ、私どもの住居は、街の中でありましたので、庭といっては(うら)(えん)さきに、わずか二坪ばかりの地めんがあるだけでした。私は毎日学校からかえると、このせまい庭のうちで、(なわ)とびをしたり(ぼう)はじきをしたりして、ひとりで遊んでいました。私は他に兄弟がありませんでした。父が病気になって、役所を休む日が重なるにつれ、私は遊びあいてができました。父は時々、どてら姿で庭へおりてきて、
 「お父さんは、きょうから体操(たいそう)の先生だ。」
 などと笑いながら、私の見ている前で、一二々々、と徒手(としゅ)体操のけいこをはじめました。けれど、ものの五分とたたぬうちに、
 「もう今日はこれでおやめだ。」
 といって、縁がわへ(こし)をおろしてしまいました。父のからだはおとろえていて、(つか)れやすかったのだと、後になってさとりましたけれど、おろかな私はその時には何も察しがつきませんでした。
 ある日のこと、父は役所のかえりに、小さなおの(●●)を一つ買ってきました。そして、あしたからまき(●●)わりをするのだ、大そういい運動になるからといって、夕飯をたべながら、母と私にむかって、常になく元気な笑顔を見せました。
 翌朝父は、裏庭でまきわりをはじめました。母と私はかたわらで眺めていました。
 「よいしょ!」
 とかけ声とともに、うちおろされたおの(●●)は、一本の丸太をポンとまっ二つに割りました。母と私ははくしゅしました。
 「どうだお父さんは上手(じょうず)だろう」
 と父はうれしそうにして、さらに二三本のまき(●●)を割りました。みんな上手にポンポンわれました。けれど、父はもうすぐに、おの(●●)をほうりすてて、縁側へ腰をおろしてしまいました。私は父に代って、おの(●●)を使ってみたいとおもいましたが、母がゆるしませんでした。父はその時かぎり、おの(●●)をふりむこうともしませんでした。
 父はどうかして、もう一度じょうぶのからだになりたいと思ったのでしょう。さまざまな健康法をこころみたことを、私は思い出します。そして、いずれも長つづきはせずにやめてしまったようにおもいます。
 ある日のこと、私が学校からかえりますと父は庭にいましたが、
 「棒押(ぼうお)しをするから早くきな。」
 といいました。父はそのとき、どこから求めてきたのか、白木のつえを手に持って、何か運動をしていたようでありました。
 私はかばんをはずして、庭へかけおりました。そして、ものをもいわず、父がさしのばしているつえのさきへとりつきました。子どものころ、私は力じまんの方で、学校友達のうちで、決してひけを取ったことはありませんでした。けれどまだ十一の子どもです。父と棒押しして勝てるつもりはむろんなかったのであります。
 「ソラ、力一ぱい押してきな。」
 と父はつえのはじを下腹へあてがって、両足をふんばっていました。私は押してみました。なかなか動きそうもありませんので、こんどはうんと力をこめて一いきり押してみました。すると、つえはぞうさもなく前へゆるいで、父はどんと(しり)もちをついてしまいました。
 私は事の意外なのにびっくりしましたが、やがて父が笑い笑い起きあがるのを見ますと、急に、
勝った勝ったという気持になって、あわてて逃げるようにして家の中へかけこみました。私はうれしくてたまらなかったのであります。
 はじめて父に勝った喜び、それは子ども心につよくひびいたものと見えて、後折にふれては思い出されました。その思い出がくりかえされるたび、喜びとのみおもったかんじょうが、いつのまにか悲しみにかわり、その時の父の笑いが、いかにもさびしかったことに、私はきづきました。二十年もすぎた今、私は泣きたいほどの心持で、あの悲しき勝利をおもい、墓場(はかば)の父にわびるのであります。
 人の親というものは、じぶんの子どもに負けることは、かえって喜びだそうです。けれど、あの時の父は、子供の成長を喜ぶ心と、自らのおとろえを知った悲しみと、そのいずれが大きかったでしょうか。私は()の強い負けぎらいな悪い子どもだったのです。父の負けを気の(どく)におもう心が、その時少しもわきませんでした。私はそれを悲しいことにおもいます。 
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