野火    土田耕平

 野火がついた
 火がついた
 あったら、むじなア
 焼け死んだ
 毎年、春さきになりますと、私はこのうたをおもい出します。故郷の春、枯草山(かれくさやま)、野火、そして、今は世にないおばあさん――いろいろとつきせぬおもい出が、このうたのひなびた調子とともに、心の中によみがってくるのでございます。
 信濃(しなの)の山国に生れたみなさんは、私が幼い年ごろに見たと同じように、あの寒い夜空にうつる野火の光を、どんなにかなつかしく、見ていることでしょう。野火が盛んに焼きはらったあとから、ぞくぞく新しい草がもえ出て、子どもにも大人にも、いちように楽しい春になります。山国は、冬のさむさがきびしいだけに、春のくるのが待たれます。
 私のおばあさんは、夜のお念仏にお寺へまいりますとき、よく私をつれて行ってくれました。寒い晩などは、厚いはんてん(、、、、)羽織(ばおり)につつまれて、私は、おばあさんに背負(せお)うていただきました。お寺は、村はずれの小高いおかの上にありまして、畑のあいだの石ころ道をのぼってゆくのでした。枯木の枝をならして、風がヒュウヒュウと吹きつけてきます。
 「寒かろ、首をひっこめていな。」
 背なかの私をのぞくようにして、おばあさんがいいます。私はいわれるままに、じっと小さくなっていますと、しばらくして、
 「ホウ、野火だぞ、えらい火だぞ。」
 「野火? どこに?」
 私は(ゆめ)からさめたように首をあげてみますと、
 「それ、あそこに。」
 とおばあさんのゆびさす、とおいやみに、赤く一の字にはっきりと、火のすじが浮きあがって見えます。
 「おばあさん、あそこは守屋(もりや)かい?。」
 「いんや、もっととおいだろ、金沢山あたりかな。この風ではぞんぶん燃えるだろう。」
 そのうちに、道のむきがかわりましたので、野火はうしろの方になって、見ることができなくなりました。
 「見えないよ。おばあさん。」
 「またかえりに見えるよ。」
 「かえりにももえてるの?」
 「ああ、いつまでだってもえてるよ、二晩や三晩は。」
 「どうして?」
 「どうしてって、大きな山だもの、ちょっとやそっとで、もえてしまうもんか。」
 「そう。」
 それから、私は、野火で山のむじなが焼け死ぬ話など、おばあさんから聞かしてもらっているうちに、お寺の門燈(もんとう)がすぐそこに見えてくるのでございました。 
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