城跡(しろあと)にて    土田耕平

 土曜日の夕方には、私はいつもお父さんといっしょに、町はずれのお城あとへ、散歩に行きました。桑畑(くわばたけ)の間のほそい一本道を二人して手をつないで、五(ちょう)ばかり歩いて行くと、くずれかかった石垣(いしがき)が、そばだっていました。大手の入口から入って行って、葉ざくらの茂った下を、あちこちまわり道して歩いて、西はずれの石垣の上へ出ると、ここは(なが)めがひろびろとして、向こうに一すじ長く河原が見えました。村の森や、低い山のつづきも見えました。
 花どきには、ずいぶんにぎわうところだけれど、葉ざくらの頃になると、ひっそりして、犬ころ一ついないお城跡でした。
 私は、お父さんと並んで、石垣へ(こし)をかけて、足をぶらぶらさせながら、(すず)しい川風をたのしみました。
 「お城は小さいけれど、お殿(との)さまは(えら)い方だったからな。」
 お父さんが、こんな風にいわれるのをきいて、私は、お城の小さいということが、気に入りませんでした。けれど、お殿さまの偉かったということは、お城の小さい大きいよりもうれしいことでした。
 「何というお殿さまなの?」
 「真田幸村(さなだゆきむら)。」
 「サナダ――」
 「ユキムラ。」
 「サナダユキムラ。」
 「そうだ。」
 「サナダ、ユキムラ。」
 私は、お殿さまの名まえを、しっかり(むね)へたたみこんだつもりでありましたが、つぎの土曜日にお城あとへ行くときには、もうすっかり忘れていました。
 「お父さん、お殿さまの名まえは、何だっけな?」
 「真田幸村さ。」
 「うん、そうだっけ、サナダユキムラ。」
 こんなことをいって、二人で笑いました。
 間もなく、私は学校へあがるようになって、先生から、真田幸村のお話をきくことができました。そして、すっかり、幸村の崇拝者(すうはいしゃ)になり、前にお父さんから聞いたときには、不平であった、お城の小さいことがかえって自慢(じまん)になりました。しかし、毎土曜日、お父さんといっしょに、お城あとへ散歩に行くことに、変りはありませんでした。お城口の石垣のところで、
 「おまえ、()が高くなったな、この石のかどまでとどくようになった。」 私のからだを(なが)めて、お父さんから、こんな風にいわれると内心はずかしいほどの年ごろになりました。
 「おまえも大きくなったが、桜も大きくなった。」
 お父さんの言葉に、私も、()みどりに(しげ)った桜の(こずえ)を、あおぎ見ながら、二人は、後になり先になりして、ぶらぶらと歩いて行きました。
 いつもの石垣に腰かけて、西にひらけた眺めに向かっていますと、お日さまは、今やむこうの山の()に落ちようとして、目にうつるものは、みな黄金色(こがねいろ)(かが)いています。
 ザア、ザア、ザア……
 それは、遠く河原の間を落ちてゆく()の音です。お父さんも私も、じっと耳を(かたむ)けました。
 幸村がこのお城にいたころもやっぱり、同じようにこんなさびしい音がしていたのだろう。そして、お日さまも、毎日々々同じように、あの山の端に落ちてゆく。そうした日がつもりつもって、遠い年月がたって行ったのだ――私はこんなことを考えるともなく考えました。それは、お父さんから教えていただいたのでもない、学校の先生から教えていただいたのでもない、ひとり、こっそり読んだ本の中からにじみついてきた考えでした。
 「お父さん、真田幸村は大阪城で戦死(せんし)したんだろ?」
 私は、ふと胸にうかんだことをたずねました。
 「うん、そうだよ。」
 「もし、戦死しなかったら、まだ生きているだろうか?」
 「三百年も、昔の人じゃないか、今ごろ生きているもんか。」
 「そう――人はみんな死んでしまうの?」
 「うん。」
 「お父さんも?」
 「うん。」
 「ぼくも?」
 「……」
 お父さんは、返事をしませんでした。僕だって、今に死ぬんだ、だんだん年をとって――年をとらなくたって、何か重い病気になれば――私は、冷たいものにさわったような気持になりました。
 「人は、おそかれ、早かれ、みんな死ぬものだ。」
 低いこえで、お父さんがいわれました。
 「だが死ぬということは神仏のおはからいだ。何もこわいことはない。人は生きているうち、しっかり勉強することが大事だ、とお父さんは思っている。」
 もう夕日の沈んだ遠い空を眺めて、お父さんは、白(ひげ)のまじった口もとに、おだやかな()みを浮かべておられました。それは、何時(いつ)か、修学旅行の時、奈良(なら)博物館(はくぶつかん)で見た維摩居士(ゆいまこじ)の顔を思い出させました。 
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