力噺(ちからばなし)    土田耕平

 明治年間のこと、伊豆(いず)大島の岡田(おか)村に、伝吉(でんきち)という漁師(りょうし)がありました。まだ若い血気(けっき)さかりの(ころ)、ふと何から思いついたものか、こう言って神さまに(がん)がけをしました。
 ――どうぞ、わたくしに力を下され、だれにも負けないような力を下され。その御礼さまには、このわたくしの寿命(じゅみょう)を四十二にちぢめてお返しいたします――
 それからというもの伝吉は、大力無双(たいりきむそう)の男になりました。人から近しく伝えきくところによりますと、島の漁師たちが十六人がかりでひきあげる漁船(ぎょせん)を、伝吉は一人でひきあげたそうです。岡田村の村社内に、伝吉の力石というものがあります。いつやらの年、友だちと二人で、見に行ったことがありましたが、さして大きなものとも見えませんので、(ため)しに()して見ましたところ、一(すん)()動かすことができませんでした。それを伝吉は、頭上に高々ともちあげたのだそうです。神さまへ願がけしたとおり、この伝吉は、四十二という年で死にました、すもうずきのわたしは、もし、こんな大力の男が、すもうとりになったら、それこそ、天下無敵(むてき)であろうといいましたところ、伝吉を知っている漁師たちのいうには、
 「あれは、すもうはそれほど強くはなかった。浜であそび、すもうをとってよく転がされた。」
との事でした。
 すもうといえば、近ごろで強かったのは、太刀山(たちやま)でありましょう。この人の鉄砲(てっぽう)(すもうの一手)にかかったら、相手方のものは、一突(ひとつき)半で土俵(どひょう)から、けしとんでしまった。二突の力はいらない、一突半というところに、この人の強さが(さっ)しられます。すもうずきの名士たちが、ある時、寄合(よりあい)の席で、「あのように一人ずぬけて強いのでは、すもうを見ていてばかばかしくなる。とくいの鉄砲をふうじることにしては、どうか?」と相談一決して、そのことを当の太刀山にいいましたところ、
 「とんでもないことをおっしゃる。すもうの一手をふうじられたら、とても勝てるものでない。」
と首をふったそうであります。そうして見ると、太刀山の強さというのも、それほど人間ばなれしたものでなかったことが考えられます。
 太刀山より、一だん強かったと想像(そうぞう)されるのは、昔の雷電為右衛門(らいでんためえもん)です。この人と組んだが最後、大ていの相手は、けがをするか、あやまてば命にかかわる事さえある。そういうわけで、雷電というすもうは、鉄砲とはり手とかんぬき(、、、、)をふうじられました。太刀山は、鉄砲の一手をふうじられようとして、うけあわなかったのに、雷電は三手ふうじられて、しかも太刀山以上の好成績(こうせいせき)をしめていたのだから、その強かったことが、思いやられます。この雷電も、はじめのうちは、すもうが下手で、たあいない相手に、ときどき()き出されて負けたそうです。大島の伝吉が、すもうにかけてはそれほど強くはなかったという話が思い合わされます。
 今のすもうで、一ばん強いと言われているのは、男女川(みなのがわ)で、今年一月本場所のすもうには、十一日のすもうに、十一日堂々と勝ちつづけて、見物の目をみはらせました。しかも、この男女川が、二三年前のこと、わずかのけがを押して、登場したときには、十一日のすもうに十日負けてしまいました。何だか、うそのような話ですが、人間というものは、時とところによって、強くもなり弱くもなり、計り知れぬものと見えます。
 かつて太刀山も全盛(ぜんせい)のころ、東京の国技館(こくぎかん)で、そのすもうぶりを、二、三度見ました。鉄砲という手は、こちらの両腕(うで)に力をこめて、相手方の(むね)をぱちぱち突きたてるのですから、そのめざましさに、多くの見物は、やんやとかっさいしてよろこびます。そういうすもうの取りくちと全く(ちが)って、太刀山の鉄砲は、腕のはこびがゆうゆうとして、わたしども素人(しろうと)の目には、あっけないほどでありました。それでいて、相手方のすもうは、たった一突半で、土俵を割ってしまいました。これから押して考えると、雷電の強みというものは、全く人間ばなれのしたものと思われますが、その雷電が、やはり負けてしまったのであります。
 はだか一貫(いっかん)のすもうでさえ、そうですから、人間の仕事というものは、はたから見て考えるほど、かんたんのものではありません。負けるときには、負けるほかない、たゞ一心に全力をつくして、一生を終えることのできた人が、(えら)いのでもあり、また幸福なのでもあります。 
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